大平原のヴァイキング

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Northern LordsとRoyal Courtの両DLCのリリース、およびVer1.5による宮廷システムや文化システムなどの新設・一新を受けて、これまでに体験したいろいろなプレイ体験を応用できるような遊びをやってみよう、と始めたキャンペーンのAARです。

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ファイアーエムブレム 風花雪月 金鹿ルナ引き継ぎなし+いろいろ制限プレイ

 

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青獅子ルナから引き続き(といってもかなり間が空いたけど)金鹿ルナも同じような制限事項を設けて遊んだ。

・ルナティック・クラシック
・セーブデータ引き継ぎなし
・金鹿の8人使う
・外伝目的のスカウトはリンハルトのみ

・ネットワーク(オンライン)禁止
・ベッド支給品禁止
・女神の加護禁止
amiibo玉座禁止
・外伝でもクエストでもない週末出撃の禁止

・壊れ・錆び武器禁止
・チクチク行為禁止

・剣回避+20禁止
・回避の覚醒禁止
・警戒態勢(および警戒態勢+)禁止
・(中級職以降)同じ兵種に就けるの2人まで(ただしメイジのみ3人までOK)
・ハンターボレー禁止
・雷霆禁止

今回も同じ兵種に就ける人数を制限することで「誰にどのマスタースキルをあてがうか」という点で編成に多少頭を悩ませる遊び方が結構気に入っている。
メイジのみ3人までOKなのは魔法キャラを活躍させるための強化方法が魔神の一撃習得以外にあまりに少なすぎるから。
前回と比較してテュルソスが使えるようになった代わりに、猛威を奮ったハンターボレーを禁止した。また外伝でもクエストでもない出撃も最初から禁止している。
また遊び始めるまでは気にしてなかったが、カトリーヌから雷霆パクるのはなんかズルい気がしたのでこれも禁止。
これでも金鹿が金鹿である以上、クロード、リシテア、レオニーが十全に使える時点で大した制限にはならないのではと少し危惧してはいたが、やはりというかそういう内容になった。
以下各ユニットの活躍や使用感。 

 

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冷酷王セルチュクと博識帝クネド

混乱からの復興

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9歳で即位したセルチュクの治世は、未曾有の疫病による世界の混乱が未だ続く中で始まった。
即位から半年後の1311年3月、王都の東に隣接するホラーサーン軍政官のケマルが黒死病で病死する。継承者たる彼の子も全て死んでいたため領地は一旦セルチュクが預かるところとなり、在地領主の従属関係を整理した上で別の者に軍政官を任せることとなる。

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のろまのルステム(後編)

巡礼

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1294年12月、ルステムはアッバース朝を再び攻撃した。彼らがエルサレムを標的としたキリスト教徒の十字軍を相手に戦っている隙を突き、ペルシャ湾岸のアフヴァーズとフーセズターンの2州を奪い取ろうとしたものだった。

西で異教徒と戦っているムスリム君侯の背後を刺す行為には不信心との誹りも受けるだろうが、ルステムを押し止めるほど重要なものではなかった。

翌1295年の12月にはアッバース朝は和平に応じ、ダイラム朝はペルシャ湾への2つ目の入り口を確保することとなった。

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のろまのルステム(前編)

石橋を叩いて渡る

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Slow<愚鈍>は全ての能力値に-3もの修正がつく不利な特性。ボザンの死の前に後継者を別の子に切り替えておくべきだったかと後悔した。

有能な軍事指揮官として活躍するはずだったボザンが倒れ、わずか9歳の子がルステム2世として即位せざるを得なくなった。ダイラムの旧臣たちは混乱に見舞われながらも摂政や評議員としてルステムを支え始めたが、ボザンが生前に構想していたペルシャ侵攻の方針は停滞を余儀なくされた。

このような事情により、摂政達はともかく外交関係の安定化を求めた。この非常時に外敵からの侵略や内乱があれば、それは王国にとっての致命的な傷に繋がりかねない。幼いルステムが城の庭で鳥を眺めたり草木を愛でている間、評議員達は使者を国内外に走らせ、細心の注意を払って予防処置にあたった。

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蛮勇のボザン

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ボザンは用兵家・軍事指導者として有り余る才を放つ人物だった。ルステムからダイラムやホラーサーンの領地をいくつか任されていた頃から領内の軍備増強に心血を注ぎ、そこから徴用される兵はルステムが管理している時よりも1.5倍から2倍程度にまで増えたと言われた。

ボザンは村々を周り戸数の正確な把握をすすめ、弓矢や槍の支度を絶えさせなかった。時にはならず者達をも兵としての誘いをかけ、戦えない人々も兵站要員としてすすんで活用した。ボザンは人々を暴力の世界に誘い統率することに巧みであったため、野心があり良心の呵責がない多くの若者が武器を手に集うようになった。

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法学者ルステム(後編)

カリフの号令

1254年5月、イスラム世界に大きな動きがあった。
ハーシム家のカリフの名において、ペルシャをモンゴルからムスリムの下へ回復すべくジハードが宣告されたのだ。

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これがあることをすっかり忘れていた

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