のろまのルステム(後編)

巡礼

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1294年12月、ルステムはアッバース朝を再び攻撃した。彼らがエルサレムを標的としたキリスト教徒の十字軍を相手に戦っている隙を突き、ペルシャ湾岸のアフヴァーズとフーセズターンの2州を奪い取ろうとしたものだった。

西で異教徒と戦っているムスリム君侯の背後を刺す行為には不信心との誹りも受けるだろうが、ルステムを押し止めるほど重要なものではなかった。

翌1295年の12月にはアッバース朝は和平に応じ、ダイラム朝はペルシャ湾への2つ目の入り口を確保することとなった。

 

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外征においては連戦連勝を続け、その領域は拡大の一途を遂げるルステムであったが、悩みが無い訳ではなかった。
自らの子に後継者たる男子が生まれないのだ。

妻達との仲も悪くなく、既に多くの子が生まれているがそのすべてが女子。イスラムの相続制では女子は決して領地を相続できない…。

ジャイバルの軍政官と宮廷学士を務め兄ルステムを支える同母弟メスードを始めとして、同族の者にも度々領地を与えている。それによって継承候補者となる男子も各地に散在しており、ルステムが男子に恵まれなくとも、一族の中から継承者がいなくなるようなことはない。

それでも、やはり我が子に後を継がせたいと考えるのが領主の常である。

 

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ルステムに男子が生まれなかった場合の後継者はメスードということになるが、肝心のメスードは22歳の若さで病死してしまう。ペルシャ一帯を襲った流行り病の結核によるものだった。一族の中で信頼できる人物を失ったことはルステムにとって大きな影を落とすこととなった。

ルステムにまだ男子がいないため、彼の継承候補第1位の地位はメスードからその子であるメスード2世に移った。ボザンから続く家系での継承の可能性は未だ途絶えていないが、なんとも心もとない状況であることには変わりない。

 

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1298年4月、王位が近親者から離れ遠縁の者に移ることを考え始めたルステムがとった行動は、メッカへの巡礼の旅(ハッジ)だった。

現世での野望を満たしきったわけでも、絶望したわけでもなかった。ただ、悩み抜いた末に己の信仰と向き合うことで、自身の精神的な成長に希望を見出していたのかもしれない。

 

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メッカへの巡礼には友であるポロスクを伴として向かうこととなった。自らの王であり生来の友人として接する宰相の同行にルステムは大いに喜んだ。

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道中では船が難破して無人島に漂着したり

 

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砂漠で喉の乾きを耐え忍び、幻覚に惑わされながらもオアシスに救われたり…

 

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苦難の末にメッカにたどり着くと、それまでの旅程で着ていた衣服を脱ぎ、代わりに真っ白の布(イフラーム)に着替える。アッラーの下では全ての者は等しく平等であり、それは王と物乞いの間でも同じであると自らに戒めるのだ。

 

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カアバ神殿の周囲を周るタワーフの儀式を通じ、謙虚<Humble>の特性を得る

 

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メッカを出たのち、ルステムは道中の貧しい村々に施しを与えながらダイラムへと帰還した。謙虚さを身に着けたルステムは神の下での調和を重んずるようになったという。

 

信仰の戦い

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1298年8月、アイユーブ朝内で庇護を受けるスンニ派カリフ・アブドゥル=クァディルはペルシャにおいてモンゴルに対するジハードを宣告し、ムスリム諸侯の参陣を呼びかけた。
ペルシャの大部分を既に制圧しこの地の王を名乗っていたルステムであったが、ペルシャ内で未だモンゴルの飛び地となっていたファールスは「未回収」の状態であった。モンゴルからここを掠めとろうにも、かの帝国は未だ単独で戦うには危険な相手であり、これまでは手をこまねいていたのが現状であった。

巡礼を経たルステムが自らの信仰心と聖戦にどれほどの結びつきを感じていたのかは不明であるが、諸侯と共同してモンゴルを叩ける状況は諸手を挙げて歓迎するべき好機なのは確かであった。

 

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未だ広大な領域を支配するモンゴル

 

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ルステムは前年の1298年まで2年間に渡り東南に接するナスリー朝と争っており、直轄領の兵の補充がまだ不十分な状況であった。

そのため、まずは先発隊として各地の封臣から招集した7000ほどの兵を用い、友軍として参戦しているアッバース朝などとも連携して城の制圧やモンゴルの守備隊5000との戦闘を行った。

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ダイラム領内にあるモンゴル側の城をあらかた制圧したころ、東からモンゴル軍の増援14000が到着し、ペルシャで既に行動中の守備隊と合流を図っているのが確認された。

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ルステムは休養させていた残りの直轄地の兵6000を後詰として追加で招集、更に念を入れて傭兵7500を雇用し、ダイラム単独で総勢28000の軍勢を整えてモンゴルとの決戦に備えることとなった。

 

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1299年12月、ダイラム軍24000はモンゴル領との境界にあたるイスタフルの山地でモンゴル軍18000と会敵した。

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モンゴル軍の精強さはやはり油断ならないものがあり、従軍中のモンゴル皇帝ボゲンを敗死させ勝利するも、数で勝るダイラム軍にも相応の被害が出ることとなった。

それでもこのイスタフルの戦いにおいてモンゴルに与えた損害は決定打となっており、モンゴル側の城はこの後次々と陥落することとなった。

 

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1300年11月にカリフ・アブドゥル=クァディルはペルシャでの勝利を宣言し、モンゴルから奪ったファールスの6州は最も戦功のあったダイラム朝へ与えられることとなった。 

 

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ルステムは新たに獲得したファールスの領地を整理し、商人を取り立てて商業共和国を傘下に設立させることとなった。

ペルシャ湾からインド洋、そして紅海に至るまで、競合となるような商人衆は未だ存在していない。傘下に置いた商家がこの地域での海上交易を独占的に支配するようになれば、上納金によって今後のダイラム朝の収益に大きく貢献することが見込まれた。もちろん、この商人達が王に歯向かう程の力を得ないように御する必要はあるだろうが…。

 

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対モンゴルの勝利から慶事は続く。戦勝の翌月の1300年12月には、第2王妃ゴルファリとの間についに待望の男児セルチュクが誕生した。
さらに2年後には第3王妃シベリからも男児トゥルグトが誕生し、ルステムの実子の後継者が整いつつあった。

  

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聖戦での敗北でテングリの宗教的権威が下がった影響か、あるいは何かのイベントがトリガーになったのか、ヒンドゥー教に改宗したモンゴル。東欧からステップにかけては正教の布教が進んでいる。

 

ホラズムの亡霊

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モンゴルとのジハードの最中、ルーム王クタイの妹でルステムの妻セラプが痛風で病死したため、クタイの息子とルステムの娘を婚約させ再度不可侵条約を結んでいた。

この頃、クタイもまたルーム傘下の封臣達と共にヒンドゥーへの改宗を済ませている。アナトリア中部からカフカスにかけて異教が根付きつつあることは、ダイラム朝やアイユーブ朝にとっては否が応でも警戒せざるを得ない状況であった。

ルームの為政者をムスリムに戻すことが難しくなったのであれば、将来的に不可侵協定が途切れたタイミングで、あるいは自分から不可侵協定を破棄してでもかの地を攻撃し、自らの領土に組み込んでしまうことも当然考えられた。アイユーブ朝と共同であたれば兵力で遅れをとることはまずないだろうし、ビザンツが介入してくる前に済ませてしまえばなお良い。

 

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ペルシャ奪還を目論み、イベントスポーン兵17kと共に現れルステムに挑んでくる冒険者バイタス

しかし状況がルステムの西進を許さなかった。

東のダイラム・モンゴル国境でしばしばモンゴル傘下の首長が独立し、その度にダイラムが即座に兵を挙げて併合する…という小さな戦いもいくつかあったが、大規模な遠征が封ぜられた最大の要因はホラズム朝の亡霊だった。

1304年1月、ホラズム朝の末裔を名乗る冒険者ペルシャ征服を目標に17000の軍勢を伴ってカスピ海東北岸に襲来した。ホラズム朝最後の王・ユーヌスの甥であり、ジャラールッディーンの孫にあたるバイタスという男が兵を募ってきたらしい。

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バイタスの軍はダイラムの全軍25000によって迎撃され、王都ゴルガーンの北にあるディヒスタンの砂漠での決戦で壊滅。これによってホラズム朝を復興せんとする彼の夢は露と消えた。

2年前からこの挙兵を知らされていたルステムはバイタスを迎え撃つことを最優先し、十全の準備をもってこれを打ち破った。ただこのために西への大きな冒険に打って出るほどの余裕はなくなっていた。

ルステムはアナトリアの再イスラーム化を諦め、アイユーブ朝とダイラム朝の間に位置するアッバース朝イラクの併呑に注力していくようになる。

 

バグダード戦役

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アイユーブとダイラムに挟まれながらもイラク王国を設立するところまでこぎつけていたアッバース朝

アッバース朝のシャー・エスフェンディヤールは1305年12月にダイラム朝に宣戦布告し、16年前にルステムによって奪われていたスースを奪還すべく11000の兵を動員しダイラム領に侵入した。

開戦当時、ルステムはモンゴルとの国境で独立した族長から領土を切り取るべく兵をイラク方面とは真反対の方向に遠征させており、エスフェンディヤールの挑戦はこのダイラム軍主力の不在を衝いてのものであった。


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しかしエスフェンディヤールの目論みは脆くも崩れ去ることになる。

翌年4月にルステムはそれまで戦っていたサマルカンドの族長を下すと、全軍をそのままイラクへ進軍させる。

スースの制圧を試みていたアッバース軍11000は反転してきた22000の兵によって粉砕され、3度の会戦によりその数は2000にまで減らされることとなった。

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1307年10月にエスフェンディヤールは講話に応じ、ルステムへ多額の賠償金を支払って戦闘は一旦集結する。

 

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もちろんそこでルステムがじっとしている訳もなく、翌月には逆にアッバース朝の王都クーファ征服を目標とし宣戦布告する。直前の戦いで金も兵も尽きていたエスフェンディヤールに抗する術はなく、再びの開戦から12ヶ月で講話が成立し、クーファはルステムへと割譲された。

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度重なる敗北に愛想が尽きたのか、エスフェンディヤール暗殺計画に参加者が続々

アイユーブ朝が手を出してくる前にできる限りイラクを吸収しておきたいルステムは手を緩めず、クーファ割譲時に結ばれた停戦協定を無効化すべくエスフェンディヤールの暗殺を企んだ。

 

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暗殺はあっさり成功する。イラクの王を運んでいた馬車は崖を転がり落ちていき、彼の子でわずか5歳のゴダーズがシャーの称号を継承することとなった。

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フィルデュースの請求権CBを利用し、クーファを突破口にして公爵級titleであるバグダードの4州を一気に奪い取らんとする。

ルステムはエスフェンディヤールの弟でゴダーズの叔父にあたるフィルデュースを招き入れ、クーファの太守として従属下に置いた。幼いゴダーズよりも「相応しい」為政者にバグダード一帯を明け渡すよう告げ、イラクへ三度軍を送ることとなる。

発生

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ダイラム朝がアッバース朝と戦い始めた同時期、遥か東のヒマラヤ山脈で謎の流行病が流行していた。

一度罹患すると死は避けられず、病に侵された村では人々はハエのように次々と死に絶え、感染は村から村へと広がっていった。この病は後の世に「黒死病」と呼ばれ、大いに恐れられることになる。

 

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アッバース領を奪い取る企みに軍を送り出してから半年ほど経った1309年8月、ダイラム領東端のメリャヴで疫病の流行が報告された。翌9月には黒死病の蔓延が王都にも迫り、病の流行を恐れたルステムは王都の門を閉じることを命じている。

 

 

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死は平等であった。

貧者も富豪も、聖者も悪漢も、屈強な若者も、か細い老人も、病は別け隔てなく殺していった。

ルステムの縁者でも犠牲は免れず、8人の娘のうち3人がこの病で亡くなった。うち1人は王国の家令を務めるディヒスタン軍政官ザカイラの妻。さらに1人はルームのスルタンに嫁いでいた娘であった。

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翌1310年の5月にはアイユーブ朝のスルタン、アリー2世も死に、彼から王位を継いだ幼いアブドゥラ1世も4年後に僅か7歳で同じ病によって死去している。
肉親の婚姻によって盟約を結び、親の領土や称号を子が継承する習わしはあまねく世界に広まった慣習であったが、この破滅的な大量死は社会全体を大いに揺るがすレベルで大混乱をもたらしたのである。

 

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この災禍の中、ダイラム朝の王都ゴルガーンだけは流行病の爆発的な感染を防ぐことに成功していた。以前より整備されていた療養所と、その医師たちが奮闘したのだ。

だがルステムは天命を使い果たしたとでもいうのか、病の流行と同時期に齢50を前にして身体が急激に衰えはじめ、そのまま寝所から動けぬ体になってしまった。

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1310年9月、世界が混沌にある只中にルステム2世は衰弱死し、その王位は長男のセルチュクに継承された。セルチュクが成人するまでの間の摂政は事前に指定されていた通り、宰相・宮廷医師を兼ね、ルステム2世の友であったメリャブ軍政官のポロスクが務めることとなった。

王国の支配領域をイラクペルシャにまで広げる躍進を遂げ、モンゴル人を駆逐し、西の大国との外交関係に苦心した大王の死としてはあっけないものであったかもしれない。

図らずも、この国の王室は2代続けて幼君の即位を経験することになった。

 

冷酷王セルチュクと博識帝クネドへ続く