蛮勇のボザン

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ボザンは用兵家・軍事指導者として有り余る才を放つ人物だった。ルステムからダイラムやホラーサーンの領地をいくつか任されていた頃から領内の軍備増強に心血を注ぎ、そこから徴用される兵はルステムが管理している時よりも1.5倍から2倍程度にまで増えたと言われた。

ボザンは村々を周り戸数の正確な把握をすすめ、弓矢や槍の支度を絶えさせなかった。時にはならず者達をも兵としての誘いをかけ、戦えない人々も兵站要員としてすすんで活用した。ボザンは人々を暴力の世界に誘い統率することに巧みであったため、野心があり良心の呵責がない多くの若者が武器を手に集うようになった。

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ボザンは帥として綺羅星の如く傑出していたが、それと引き換えに他の領域への関心が低く、そのためボザンに見出された人物が王の評議員として彼を支えた。

ボザンは1268年7月に父から王位と直轄地を継承すると、自身で管理しきれない領地を有能な人材に与えた。ヒヴァ、ディヒスタン、アゼルバイジャンの各軍政官として封じられた宰相ウマユン、将軍ファローク、宮廷学士ヤクートはその代表的な例だろう。

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Powerful Vassalになると評議会の座を要求するようになる…なら有能な人物がPowerful Vassalになるようにすればいいという発想

 

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ボザンにはアイユーブからアル=カーミルの娘アズネトが第1王妃として迎えられていた。由緒正しい先方の家柄からすればゴルガーンの宮殿は片田舎といったとこだろうが、アズネトは浪費癖等もなく謙虚な人物であったようだ。夫婦共に社交は得意ではなくても仲は良好で、最終的に3男1女をもうけた。

 

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ルステムの生前から続いていたアナトリアのセルジューク領を巡る聖戦は、ムスリム側優勢で収束しつつあった。ビザンツに占領されていた地域は既に解放され、逆にビザンツ領をいくつかを奪ってセルジューク単独でもそれを保持できるほどであった。そのためボザンは程なくアナトリアから軍を引き上げた。

 

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ビザンツは1269年12月に敗北を認め、皇帝バルダスからセルジュークの幼君ソクメンに莫大な賠償金が支払われた。こうして三国同盟が4年以上に渡って兵を送り続けたアナトリアの戦役は終結した。

 

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また、この頃にボザンは南西部のホラーサーンのスルタンをも名乗り始めている。本拠地はあくまでカスピ海沿岸のダイラムであるものの、そこに留まらず周辺領域の統一を進めるだけの力を名実ともに持った立場となっている。

 

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ボザンは長子ルステムとソクメンの妹サラプを婚約させ改めて盟を結び、セルジュークとの婚姻関係を強化した。ルステムの頃からの外交方針を継承し、セルジュークとアイユーブと協調しながら、南のペルシャに勢力圏を広げることに意識が向けられていた。

 

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アッバース朝、ホラズム朝、クトルグ=ハン家の中勢力3つが混じりあうペルシャ。黄緑の点線内がペルシャ王国のde jure領域…かなり広い。青の点線はダイラム王国、緑の点線はホラーサーン王国の慣習的領有域。

先のジハードではホラズム朝によって復興されるも在地領主を統制できず分散していたペルシャは、今はアッバース朝を始めとする他勢力の草刈り場となりつつあった。

 

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有用な指揮能力を次々と身につけていく

 

ボザンは軍を編成することのみに満足せず、自らが戦陣に立って兵を指揮することにも強烈な意欲を顕にする人物であった。実地教練から盤上での兵棋演習に至るまで、あらゆる場で貪欲に成長を続けていた。

自らの名においてペルシャを征服せんという野望に取り憑かれていたのかもしれない。他の評議員が諌めることもままあるほど、戦場での栄達に拘る傾向が特に強かった。

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軍を率いる能力は贅沢なまでに強化されつくした

 

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1272年、ホラズム朝傘下だったクルディスタンで反乱が発生すると、ボザンは待ち望んでいたとばかりにここに攻め込んだ。ダイラムと同様にクルディスタンを狙うアイユーブ朝傘下のダマスカスやジャジーラの軍とも敵対し、ここを巡って外部勢力を交えた四つ巴の戦いが繰り広げられた。

戦いそのものは質量共に圧倒的な実力を誇るボザン率いるダイラム軍の快勝に終わり、クルディスタンはダイラムに併合される。

だがボザンには甚大な凶事が降り掛かっていた。戦場で交錯した敵兵に不覚を取られ、右腕を失う大怪我をしてしまったのだ。

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ver3.0でのアップデートで個人戦闘力や戦場でのイベントの見直しがあるまで、王が戦場に立つことのリスクは大きすぎた…

 

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ボザンの不幸はさらに続く。切り落とされた右腕の処置が不十分であったために、傷口の膿が悪化、感染症に体が蝕まれていたのだ。

ボザンはゴルガーンの宮廷に担ぎこまれたものの、既に医師の手に追える状態ではなくなっていた。王は腕を失ってなお塗炭の苦しみを味わい、館のいたるところにまで響くような悲鳴をあげ続け、そして苦痛が限界に達して気絶することを繰り返した。

 

「こんな、こんなはずでは…俺は南の城を尽く攻め落とし、それを我が家門の旗で飾り、そしてペルシャの王に」

 

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1273年7月、ダイラムとホラーサーンの王であり、その武勇でもってペルシャにも版図を広げるはずだった若き英雄の人生は、王位継承からわずか5年の治世であっけなくその幕を閉じた。

ボザンの子には男子が複数いたが、そのどれにも後継者とみなされるための領地は与えられていなかった。そのためアイユーブの妃アズネトとの間に生まれた長子がルステム2世として即位した。

 

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急遽王となってしまったルステム2世はいまだ幼く、周囲からは「のろま」と密かに蔑まれるほど器量に恵まれない人物であった。

残された人々がキジル朝の王国の未来を重苦しく感じていたであろうことは想像に難くない。

 

のろまのルステム(前編)へ続く