聖帝ステイン

ステインは即位して程なく、ドニエプル川ドニエストル川の間、かつてマジャル人達が遊牧時代に居住していたエテルケズへ巡礼に赴いた。先の霊帝達と同様に、神の啓示を受けたことを示すことで宗教的権勢を得るための行事である。

「我はここに誓う。我が血と我が魂を神に捧げ、永遠なる忠誠を尽くすことを」
「我はここに誓う。我が身を神の剣と化し、悪しき者どもを打ち倒すことを」
「我はここに誓う。人々の繁栄のため、この身命を賭す事を」


モルダヴィア王ネホトが宮廷司祭を勤めている

ステインは祭壇の前で膝を折りながらタールトシュの聖句を唱え、聖酒が注がれた杯を受け取って中身を飲み干すと、神との「交信」を果たすために瞑想に入った。
「…………」
傍で控える司祭ネホトの表情は平静を保ち、新たな霊帝の所作を見守っている。
ステインはゆっくりと立ち上がると、一礼して聖堂の外へと退出した。


3つの美徳を兼ね備えたステイン2世

儀式を終えたステインは背筋を伸ばし、聖堂の外で控えていたタールトシュ達に向けて声を張り上げた。

「我々はこれより、新たなる使命を果たす」
「我々の祖先は、この地を取り戻すまで幾多もの困難を乗り越えてきた」
「我々がこの地へと辿り着いた理由はただ1つ。……『天』の意思である」
「今こそ、その定めに従い行動を起こす時が来た。これは未来のための戦いである」

ステインはタールトシュ達の顔を順に見渡した。
「まずはフランク人を西へ追いやる。奴らはすべからく、我が臣民の驚異である。奴らを西に追いやり、我らが神域に安寧をもたらすのだ」
タールトシュ達は一斉に平伏し、頭を下げた。
ネホトとステインはその様子をじっと見つめていた。

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カルパチア領内で広く改宗が進んでいる

ステインは自らの言葉を実行すべく、まず国内の統治と安定化に尽力した。
国内の安定化を図る中で、キリスト教徒のウラル教への転向も父や祖父と同様に推し進めた。

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ステインの西方政策の要は、バイエルンのシュタイアーマルクに封じられた弟のエイナルであった。エイナルは父ヨートルの生前から西のフランク人を打ち払って得た領地を与えられ、カトリック勢力に接する最前線でカルパチアを守護する役目を任せられていた。

ステインはエイナルの居城を訪れ、その中庭で静かに話した。

「お前にはバヤールの王になってもらいたい」
「…まぁ、そんなところだろうと思ってはいた」
「不服か?」
「いいや。俺が王になるのが、一番都合が良いんだろう?」
「そうだ。バヤールからキリスト教徒を一掃し、帝都の西に盾となる広大な領域を確保する。そこに一番信頼できるお前を置きたい」
「…グルグを獲りにいくんだな」
「母上の望みでもある。代わりに、バヤールの土地は全てお前に与え、王位もお前の子が継いでいく」
「分かった。任せておけ」
「すまないな」
「構わんさ。お前がミクラガルドの玉座を手に入れたら、良い葡萄酒を持っていく。そこで乾杯しよう」
「ああ。グルグの宝物庫にある上等な杯で酒盛りだ」
「楽しみだ。キリスト坊主どもを拷問してやるときは、俺に任せてくれよ」
「いいとも、お前の腕の見せ所だな」

ステインは弟の悪趣味に笑いながら答えた。

即位から4年が経った1021年、霊帝ステインはバイエルン王ファラベルトに対する聖戦を敢行し、ザルツブルグを奪い取るとこれをエイナルに与えた。
新たに征服した領地では民衆の改宗のために司祭が派遣され、各地のキリスト教会はイシュテンの神殿に立て替えられていった。

クロアチア戦役

1029年9月、ステインは自身の娘マチルドの嫁ぎ先であるスウェーデン中部のベルグスラーゲン王ボトールフと、ラウマリキ分家のポラニア公ファスティ2世の軍勢、そして生命の樹の戦士団を合わせたおよそ3万5千でビザンツが支配するクロアチアに侵攻した。
彼らの陣容はカルパチアの常備軍と聖戦士団を合わせた1千700騎に登る弓騎兵と、ハスカール800、そしてベルグスラーゲン王とポラニア公配下の自由民(ボーンディ)1千400が主力であった。
一方ステインの叔父にあたるビザンツ皇帝バシレイオス2世は栄えある千騎のカタクラフト、1千400の重装歩兵、そして千のパイク兵を含む1万6千の軍を率いるとブルガリアを発してドナウ川沿いに進軍し、両軍はクロアチアドナウ川南岸・チャズマの平野で激突した。

「我々はこれより、新たなる使命を果たす!」
数分後には血みどろの戦場となるであろう平原をわずかに見下ろす岩の上で、ステインは馬上から声を張り上げて高らかに宣言した。
「我らが神域に安寧をもたらすために、我々は戦う。我々に立ち止まることは許されない。我々は神の僕であり、天の意思に従う者なのだ!」
ステインはそう言って、自らの剣を抜き放って叫んだ。
「進め! 我らの力を、今こそ示せ!」
ステインの軍勢は一斉に雄叫びを上げ、突撃を開始した。

11世紀においても弓騎兵は平原の王者であった。
密集した歩兵に対して側面や後背を突いて一方的に矢の雨を浴びせかけ、敵の隊列を消耗させた上で精強なハスカールの重歩兵が突入していくという戦術は、この時代でも依然として有効だった。
ビザンツが誇るカタクラフト部隊も、その重量故に平地での機動力においてカルパチアの軽装な弓騎兵に追いつくことはできず、ビザンツの歩兵隊を護衛することに限界があった。
また、ビザンツ軍は動員した兵力を黒海方面からドナウ川に沿ってクロアチアまで行軍させており、決戦の場となったチャズマに到達した頃には糧食が欠乏し士気にも欠けていた。

数でも劣るビザンツ軍は、戦いが始まってすぐに劣勢に立たされた。重装歩兵やパイク兵は弓騎兵に圧倒され、次々と矢に倒れていった。
ビザンツ軍の戦列は前進を止め、防御に専念して敵からの射撃を防ごうとするが、頭上には雨のように矢が降ってくる。
やがてビザンツ軍はカルパチア軍の攻撃に耐え切れず後退を始め、ついには総崩れとなって潰走した。


敗走する敵への追撃も含め弓騎兵のキルスコアが凄まじい

ビザンツ軍はこの戦いで大打撃を受け、残存した兵力も続くオキッチの戦いで完全に殲滅された。
組織的な抵抗が不可能となったバシレイオス2世は1032年6月に講和に応じ、クロアチアをステインに割譲した。

こうして1029年から始まったクロアチア遠征は終わりを告げた。
アドリア海に接する広大な領土を得たステインであったが、彼の心は晴れなかった。
チャズマの戦いで弟のシュタイアーマルク公エイナルが戦死してしまったのである。

f:id:holland_senbei:20220620095050j:image痛恨

「お前を王にすると言ったではないか。俺の許しも得ずになぜ勝手に死ぬ」
チャズマの戦いの後、野戦陣地でエイナルの遺体と対面したステインは、腰を下ろしながら一人恨み言を垂れていた。
「俺は誰に勝利の杯を掲げれば良いのだ」

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教派の聖職者の特性"Recruitment"により、寺社領主や出家により僧となった人物は武勇が+4されている

心の中の弟と会話をしているであろうステインを、異母兄モーゼス─父ヨートルによって廃嫡され、僧となった後に弟ステインの近衛となった兄─は不憫に思った。
だが次第にモーゼスは認識を改めることになる。ステインが幻覚に対して発する会話や反応が、この時ならずしばしば見られるようになってきたからである。


Lunaticの特質を獲得してしまう

ステインの目には、自分の周囲に奇妙な人陰が映るようになっていた。視界の隅に影としてしか見えない時もあれば、見ただけで消えてしまうこともある。 衛兵をいくら増員しても、これらの「奇妙な人々」を見つけることはできなかった。
自身が起こした戦で弟を死なせたという事実が、ステインの精神にとって耐えがたい苦痛となったことで起こった防衛機制であったのだろうか。
ステインの思考は竜巻の中の葉っぱのようにぐるぐると回転していた。現実とは何だろう?何が現実なのか?すべてが曖昧模糊としていたこの世界の中で、ステインにわかるのは「雲の中の女性」が自分を理解してくれているということだけだった。

征服と改宗

「征服地からキリスト教徒を一掃せよ」
1032年7月、クロアチアから帰還したステインは新たな命令を下し、司祭ネホトはクロアチア各地の正教会の司教と領主達に手紙を送った。

「貴方達は誤った信仰を捨て、正しい教えに導かなければならない。これは我々が神に仕える者として果たすべき使命である。あなた方の主イエズスもまた、我らが神の僕なのだ」

当然のことながら、キリスト教徒達はネホトの勧告に応じなかった。
ステインは改宗に応じなかったことを大義名分とし、キリスト教領主達から全ての領土を剥奪することを通告した。
旧来の信仰を守ろうとする人々は武器を取って立ち上がり、彼らの一揆霊帝の直轄地となった北部を除くクロアチア南部の全てに広がった。

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蜂起したキリスト教勢力に対して、ステインからの慈悲は与えられなかった。
大部分が山や丘陵に覆われているクロアチアは侵入者にとって険しい土地であるが、十全のカルパチア軍にとっては脅威とはならなかった。
歯向かった城や都市にはカルパチア軍によって火がつけられ、抵抗した者達は首吊りに晒されるか、焼き殺されるか、あるいは奴隷として売り飛ばされた。
血と脂の臭いが立ち込め、悲鳴と泣き声がこだまする夜が幾度か続いた。
しばらくして、クロアチアの各地にはタールトシュ達が派遣され、生き残った住民への「教化」が進んでいった。

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ビザンツより切り取ったクロアチアを統治するにあたり、誰を彼の地に封じるかが合議の中で話し合われた。
ラウマリキ家の誰かに与えるか、あるいは在地の人間から誰かを取り立てるか、様々な思案を経た後に、クロアチア戦役の中で捕縛したギリシア人、メリセノス家のカリストスを立てることに決まった。


カリストスの祖父にあたるアナトリコン専制カリストス2世はビザンツの下でクロアチアの支配者としても版図を広げた人物であり、カルパチア軍に捕らえられたカリストスはそこからクロアチアを相続した側の一門であった。

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カリストスは軟禁を解かれた後にイシュテンに帰依し、ステインの姪にあたるスヴェトルーサと母系婚約した上でクロアチアに封じられた。

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スヴェトルーサは若くして癌を患っており、その後カリストスとの間に娘を1人産んだ後に亡くなってしまったが、財務・領地経営能力に長けたカリストスはステインに重用され、帝国の財務担当として評議会の椅子を与えられるまでに眷顧された。
クロアチアの正教徒を一掃した後には、父祖と同じクロアチア全土の君主として再興することとなる。

ビザンツ帝国の滅亡


"Pursuit of Power"のTenetを備えているため、聖戦CBと合わせて一代で二度の王国級の侵略戦争ができる

クロアチアキリスト教徒を一掃してから2年後の1035年7月、ステインは次にセルビアを標的として対ビザンツの聖戦を敢行した。

これにも難なく勝利したステインは同地を次男ドモトルに与え、ビザンツ領の吸収と一族によるバルカン支配を強めていった。


血統を聖別。「救世者」の特質と「聖帝」の称号を得る

クロアチアセルビアで神への献身を示し聖職者達からの支持を強めたステインは、ラウマリキ王朝そのものが神聖な血統・聖別された存在であるという認識を信徒たちの中に造り上げるに至った。
信徒の多くの人々が、ラウマリキを真に「聖遺物の管理者」、「神の意志の代理人」であると考えるようになったのである。

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母ディオニュシアから継承した請求権により、ビザンツ全てを併呑しにかかる

バルカンでの2つの戦役と、それに便乗した傘下領主の内乱により弱体化していたビザンツ皇帝レオン8世に対し、ステインは母ディオニュシアより継承した請求権を主張し「我こそがグルグの皇帝たるべし」と帝位の自身への譲位を求めて1040年11月に3度目の対ビザンツ戦争を開始した。

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send giftによるopinion上昇量が外交perkによるボーナスと合わせて凄いことになっている

クロアチア戦役でも頼られたムンソ家のベルグスラーゲン王ボトールフは当初出兵を渋ったが、ステインによる贈物に釣られて援軍を承諾することとなった。

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カルパチア・ベルグスラーゲン連合軍2万2千はビザンツ軍1万3千とブルガリア南東部にあるポタムカステルの平野で激突すると、これを一方的に打ち負かした。

「神は何故このような惨い試練を与え給うたか!」

戦場からかろうじて生き延びたビザンツ貴族達は嘆き悲しみ、その声はすぐに怒りへと変わっていった。

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カルパチア軍は散り散りになったビザンツ軍を追撃し、ギリシアブルガリアの間にあるロドピ山脈にてビザンツ軍残党の半数を更に討ち取ることに成功する。

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各地の城塞の制圧を進め、ビザンツ軍の生き残りを磔にして晒した後、ステインはビザンツ皇帝レオン8世から降伏の意志を受け取った。
7世紀に渡りローマ皇帝の都として栄えてきたコンスタンティノープルは開城され、ここにビザンツ帝国は滅亡した。

帝国解体


ビザンツ帝位を破棄し、ポントス専制公など複数人の大貴族を独立させる

既にクロアチアセルビアで行ってきたように、ステインの治世の大半はキリスト教徒の弾圧とウラル教への転換に費やされた。
それまでの領土に加えてブルガリアギリシア、そして小アジアをも一挙に手中に収めることになったステインであったが、傘下に収まることとなったキリスト教領主達の反発は明らかであり、彼らが一斉に蜂起すればカルパチアの軍事力では抑えきれないことは容易に想像できた。

ステインはビザンツの解体を宣言すると、ポントス専制公、アナトリコン専制公、メソポタミア公、北アフリカチュニス公…と小アジアを中心に旧ビザンツ領主に対して封建契約を解消して独立を与え、その代償として彼らが反カルパチアの一揆に関与しないことを確約させた。

一方でそれ以外のバルカン半島を中心とした領主に対しては棄教を迫り、従わない者達に対しては武力をもって領地を奪っていた。

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ギリシア人たちも座して死を待っていた訳ではなく、新たな皇帝となったステインやその重臣たちに対して融和を試みていた。
彼らが招いた宴では肉料理や魚料理、葡萄酒、焼き菓子などが豪華に振舞われ、口にした者たちを大いに喜ばせた。
また腕に自信のある戦士たちに向け武芸の競い合いを催し、拳闘や剣術、槍術などで異なる文化の交流が為されていた。
しかし、彼らの努力が実を結ぶことはなかった。
食事の際に捧げられるマリアへの感謝の祈りは無視され、武芸競技会はカルパチアの戦士がギリシアの戦士を白昼堂々殺害するための場となっていた。
度重なる侮辱と挑発によりギリシア人の不満を募らせ、将来の禍根となる不穏分子をまとめて暴発させるための目論見であった。
これらはギリシア人たちの心を大きく傷つけ、ついに彼らを激怒させた。


ステインの治世においてギリシア全域で四度の反乱が発生し、その全てがカルパチア軍によって粉砕された。
捕らえられた伯や公は25人に達し、彼らは全て領地と財産を没収された上で追放された。代わりに改宗したギリシア人が取り立てられて、新たな封建領主となった。

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ヘラス王位とテッサロニキ王位は三男アスビョルンに、エピロス王位は四男イングヴァールに授与

彼らを束ねる王として、ステインの三男アスビョルンがヘラス王とテッサロニキ王として、四男イングヴァールがエピロス王として任じられた。

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コンスタンティノープルの宮殿に収蔵されていた宝物は全てホルグスホールへ移送されることとなった。
ユスティアヌスの宝冠、シャルルマーニュ玉座、そして数々のギリシア風のタペストリーなどの数々の煌びやかな美術品がカルパチアの宮廷を彩り、それらは霊帝の権力の象徴の一部になった。

こうして悲願だったビザンツの征服は完了したものの、共に栄達を誓った弟エイナルはギリシアにたどり着くことなくこの世を去っていた。
壮麗に設られた宮廷の眺めが、ステインの心をどれだけ癒したのかは定かではない。

ビザンツ皇帝位を簒奪してからおよそ13年間、ステインはギリシャ内の宗教反乱への対処に残りの生涯を費やした後、1056年1月に62年の生涯を終えた。
彼の異教に対する苛烈なまでの態度が為政者としての合理的判断によるものだったのか、あるいは弟を失い狂気に陥った末の凶行だったのか、当時の史料には記されていない。

 

次回 悲哀のゲルゲイ