串刺しブズリ
不本意な結末
居城における霊帝ゲルゲイの暗殺は、帝国に大きな衝撃をもたらした。
皇宮の周辺には直ちに厳戒態勢が敷かれ、諸侯を集めての宴席は緊急の会合に様変わりした。
暗殺者は姿をくらませ捜査は難航する一方、重鎮たちは次代の為政者ブズリにいかに政権を移譲するかを話し合った。
結果として、評議会の席はゲルゲイの頃から留任された者が多くを占めた。
ブズリの大叔父エイナル─聖帝ステイン2世に従い、クロアチアにおける対ビザンツの戦で斃れた─に連なる血筋のバイエルン王デネスが引き続き宰相となり、メリセノス・セニ家のクロアチア王カリストスもまた3代の霊帝に続けて家令として仕えることとなった。
帝国の将軍には若輩ながら優秀な軍事能力を発揮するテッサロニキ・ブルガリア両王のタマス─狂信者集団に襲撃されて首を切り落とされたアスビョルンの子。ブズリの従兄弟─が就く一方、密偵長にはブズリへの忠心と知謀を兼ね備えるエステルゴム伯ボドヴァルが新たに任命された。
ブズリの即位に関する大まかな段取りが帝国の諸侯や司祭達の間で固まると、彼らはひとまず下城した。
ひと時の静けさを取り戻した皇宮の一室にて、ブズリは一人腰を降ろしていた。その冷たい瞳は闇に満ち、憎悪の炎が揺らめいている。
彼は既に父帝ゲルゲイの暗殺という事実を受け入れていたが、それに対して抱く感情は悲哀や義憤ではなかった。
教育系特性は外交系統のブズリだが、悪辣な性格をしているため智謀値も高い。ライフスタイルは途中から恫喝フォーカスに切り替えた
「私の手で父の顔を恐怖と苦痛で歪ませる機会を誰かが奪った。これだけは絶対に許せるものではない…」
ブズリは己の暗い欲望が果たされることが今後永遠に訪れなくなったことを痛感していた。ブズリにとってゲルゲイの死は病や他人によってもたらされるものではなく、自身の手で父を芸術に仕立てる仮定で訪れる筈のものであった。故に、それを邪魔した何者かへの怒りと憎しみは増すばかりだった。
ゲルゲイが深く悲しんだステインの不審死はAI操作時のブズリによる暗殺だった
ゲルゲイの生前に民会によってヘラス王に選出された彼の次男、すなわちブズリの実弟ステインを遠乗り中の事故に偽装して暗殺したのも、ブズリの手によるものだった。
弟が自らを差し置いて王に選ばれる栄誉に預かることは、兄弟の中で最も野心的なブズリにとって屈辱以外の何ものでもなかった。
ステインの死後に民会が次のヘラス王に挙げるのはブズリであることは自明であったので、ステインを「事故死」させることはブズリの憂さを晴らしつつ、王の地位を自らのものにすることのできる一石二鳥の手であったのである。
ラウマリキ宗家当主が代々継承するハンガリー王位だけでなく、ヘラス王位も兼ねるブズリ。邪悪な性格であるが外交と軍事を筆頭に優秀な能力を誇る
暗闇の闘争
帝位に就いたブズリはゲルゲイの死の真相を究明せんと、宮廷の暗闇に身を投じた。
情報の収集を命じられた密偵長、エステルゴム伯ボドヴァルにより放たれた間者は帝都や各地の諸侯領に向かうと裏通りで聞き耳を立て、袖の下で銀を贈り、あるいは刃を突き立てて後ろ暗い噂話を聞き出していった。
ブズリに報告される情報の大半は面白みのないものであった。バクス公マルクに愛人がいること、ボヘミア公タマスの近親姦の疑い、トランスカルパチア公エルネーの不信心について…などなど、多くの諸侯の醜聞がブズリの耳に入ってきたが、どれもブズリの心を動かすことはなかった。
国内の統治に邪魔な人物の秘密を握れるといろいろと都合が良い
無聊をかこつブズリは、手慰みに新たな霊帝の畏怖をカルパチアに振りまくことにした。
前ウングヴァル公に対する殺人の事実が明らかになった、現ウングヴァル公ジーリをその罪状で追いたて、8000の兵を率いて彼の領地を蹂躙した。
同じウラルの信仰ではあるがカルパチアの内側の山麓で異端を奉ずるジーリはブズリにとって目障りな存在であり、彼の領地を没収して正統な信仰を持つ別の者に公の地位をすげ替えるという目的もあった。
捕らえられ、全ての土地を剥奪されたジーリはブズリの「趣味」の実験台となり、皇宮の奥底で生きながら全身を刻まれた。
いくつかの夜が過ぎた頃、ブズリがジーリの悲鳴を肴にして葡萄酒を嗜んでいると、密偵長ボドヴァルが駆け込んできた。
ブズリは彼がもたらした新たな情報に目を見開いた。
父帝ゲルゲイ暗殺の主犯が、ゲルゲイの従兄弟(ブズリの従祖父)にあたるジェール公アスビョルンであることが明らかになったのである。
ブズリの従祖父、ジェール公アスビョルン3世
アスビョルンの弑逆の動機は単純なものであると推測できた。
彼は勇敢だが強欲な人物として知られており、ゲルゲイの死の直後には帝位を自らのものにせんと、自分を支持する諸侯を募り一揆を企てていた。
この時はブズリがアスビョルンと互いの子を婚約させることで不可侵の盟を結び、一揆を解散させていたが、当時ブズリがこの事実を知っていたならウングヴァルと同様にジェールも焼き払われていたはずである。
真相を知ったブズリは待ち望んでいた敵を見つけ出したことを僅かに喜んだが、それも長続きはしなかった。むしろ暗殺の下手人のあまりにありきたりな因縁に落胆すら覚えたほどだった。
「私は期待していたのだ。私より先に父を殺した者がいかなる深慮遠謀をもってあの凶行に及び、この先私をどのように包囲して挑戦してくるのだろうと」
アスビョルンによる暗殺は、父が宴を催し懐がガラ空きだったあの夜に、極めて単純な機会主義のもとに実行された急拵えなものでしかなかった。
ジェールは帝都の西に隣接する公領であり、霊帝の膝下の臣下の叛逆だった
ブズリの中に己が敵に対するかつての興味はもはやなかった。派遣した軍がジェールに赴いてアスビョルンを捕えてきたときも、半ば義務的に彼を拷問してみても、ブズリの中で何かが満たされることはなかった。
そのような調子であったので、ブズリはアスビョルンを一通り痛めつけるとあっさりと彼を城の外へと解放してしまった。
たとえ罪人であっても、親族を直接的に処刑したり拷問による健康度ペナルティで死亡させると自分に身内殺しの悪評がついてしまうので、なるべく避けたい
アスビョルンは父フリドリクを根拠とする地位の継承権を全て放棄させられるが、その後ラウマリキ・シュールズベリー家の親族を頼りイングランドと流れ、癌で亡くなる60歳までその後も10年以上生きたと伝わっている。
征服と栄光
この世界のアッバース朝は幾度も十字軍を跳ね返し、内部崩壊する兆しもない。万全の状態では2千に迫る重歩兵を含む3万の兵力を動員しており、正面から敵対したくない相手だ
ビザンツ帝国の消滅から1世紀以上が経過し、小アジアではイスラム勢力の侵入が顕著になっていた。
聖帝ステイン2世によるビザンツの解体後も、ポントス専制公バルトロマイオスやアナトリコン専制公ディオゲネスが互いに折り重なった領域を形成しつつ、いまだアナトリアにキリスト教圏を維持していた。
しかし彼らを庇護する強大なローマ皇帝がいなくなった影響は大きく、南のアッバース朝イスラム帝国とその傘下の者達を筆頭に、数多のアミールが正教徒の残存勢力を圧迫していた。
こうした状況において、霊帝ブズリはサラセン人達と積極的に矛を交えることは避けつつも、アナトリアが彼らに完全に飲み込まれる前に可能な限り自らの勢力圏として切り取るべく行動を起こしていく必要があった。
ブズリはボスポラス海峡東岸のオプティマトイ一帯を1077年の10月から12月の2ヶ月で併合したのを皮切りに、1082年にアナトリコン、1086年にトラケシオン、1089年には東地中海沿岸のキビュライオタイを制圧して小アジアを横断し、相次いでカルパチアの支配領域を拡大させていった。
またこれらの戦いの最中には北海の冒険者達がピンスクを標的としてガルダリキに大挙して押し寄せたり、イタリアのカプア公アイストゥルフ2世がクロアチアを狙ってアドリア海を渡ってくるなど、東方での聖戦は他の周辺勢力の介入も伴う長期間の事業となった。
これらの戦役での勝利はブズリの皇帝としての名声を高め、カルパチアの軍事力を誇示する絶好の機会となった。
ギリシア文化と混合してカルパチア文化を作成。ギリシアが圧倒的に先行している文化の革新を吸収するのと、文化の気風をギリシアの"Bureaucratic"(官僚的)で上書きして技術革新や土地の発展を加速することが主目的
ギリシアの人々や土地の吸収は軍事的な征服のみに限らず、文化的な側面でも進んでいった。
フェルヴィデクの戦士の勇猛さと武勇を称えながら、ギリシアの知識と芸術の美を尊重し両文化の長所を結びつけることで、帝国内の民族間の融和を図ったのである。
新たな気風を備えた人々は帝都を中心に少しずつ広がり、帝国の発展に寄与すると同時に、これまで宮廷に敵対的だった旧ビザンツ圏の人々の敵愾心を和らげ、連帯を強めることが期待された。
アナトリコン専制公ディオゲネスを捕らえた際は、ナイフを用いた念入りな取り調べによって彼と司教ユストラティオスの不道徳な情愛が明らかになった
一方でブズリの根本的な部分には残虐性が鎮座する人間であったので、彼の治世の象徴は融和ではなく恐怖であった。
アナトリアでの聖戦を始めてすぐの頃、長女マールが他の子供達と水辺で遊んでる最中に不運にも溺死してしまった時、あるいは最愛の皇妃エテルと母イードブルを立て続けに病で失った時、ブズリは捕虜にしたキリスト教徒を使ってその心痛を癒した。
"Sadistic"により拷問と処刑の度にストレスをお手軽に解消できるブズリ。拷問官ツリーのPerk "Dark Insights"によりランダムで智謀か個人武勇が強化されるのも強い
彼らを手ずから拷問したり、あるいは首を切り落とさせたり、火炙りにかけて処刑したりすることは、肉親の喪失を紛らわせるのに最適な方法であった。手っ取り早く、金もかからず、また征服行の中で虜囚となる人々は絶えず増えていたので、家族が身代金を支払う能力のない捕虜を有効に「活用」できる手段だった。
大量の囚人を消費するライフスタイルイベント
ブズリが撒き散らした恐怖の中で最たるものが、ホルグスホールの野に打ち立てられた「屍の森」である。
20体以上の人間の串刺しからなるそれは森というより広場と呼ぶべきものであったかもしれないが、全てがブズリ自身の手で制作された作品群であった。
ブズリは自身が夢見た光景が現実のものとなった時、静かに喜びを味わいつつ、そこをのんびりと散歩していた。鴉の鳴き声と汚れた地面に滴り落ちる血の雫の音を聞きながら死の瘴気を吸い込むと、満足げに城へと戻っていった。
帝都の人々はブズリを大いに恐れて「串刺帝」と渾名したが、その恐怖心は徴税官の仕事の手助けとなり、悪辣ではあるが国庫を潤すことになった。
家族の醜名
国の統治を滞りなく務めるブズリであったが、家族間の問題、特に自らの後継者たる子供たちの事情はあまり芳しくなかった。
将来の諍いを防ぐため、歳の近い他の兄弟は僧として神殿に送られていたが、嫡男ヨルンドは成人してなお野心や指導力に欠けていた。
領主として活動する前から既にストレス対処系の特質を3つも抱えてしまっている
皇子としての重圧に耐えきれずに苦悩していたためか、ヨルンドにはオリョールの女僧アスタとの不倫の噂が広まり、これが皇室の威厳を損なうこととなった。
ブズリはヨルンドを厳しく叱責し廃嫡することも考えたが、既に僧となった次男ランパート、同じく三男マチャアスを除くと為政者としてヨルンドよりも明確に優れると期待できる弟もいなかった。
またヨルンドの妻はギリシアで2つの王位を兼ねる従兄弟のタマス王の妹シグリッドであり、その関係をこれ以上無下にすることも躊躇われた。
皮肉にも、神に仕える道を選ばせた次男ランパートのほうがヨルンドよりも王に相応しい人物に育っていた。
ランパートはある日ブズリに自らの希望を訴え、生命の樹の戦士団の一員として異教徒との戦いに身を投じることを望んだ。ブズリは彼の決意を理解し、遠くブリテンへと送り出した。
東欧から遠く離れたイングランド中部にはラウマリキ・シュールズベリー家を筆頭に、ウラル宗教の独立領主が根付いている
このときの戦士団はイングランドのマーシア公エメセの呼びかけに応じ、イングランド南部やスコットランド、アイルランドを制圧した北人達との激しい戦いに駆り出されていた。
あまりの放蕩ぶりのためか何者かに暗殺対象にされる嫡男ヨルンド
醜聞にまみれながらヨルンドは結局後継者として据え置かれ、本人よりもむしろその子のアールモシュが大成することに一縷の望みが託された。
人望に乏しいヨルンドが後継者として留められたのは、一度僧となった弟たちが世俗に戻る手段がなかったことが一番の原因ではある。ただ、穿った見方をするならば、父を苦悩させる子への「責め苦」を与えようとするブズリの邪な意図もあったのかもしれない。
まだまだ生きられると思っていたのに、イベントで病弱となりいつ死んでもおかしくない状態に
齢50を越え老いた身となったブズリは、ヨルンドの子アールモシュをカルパチアの未来を担う有望な為政者として育てるため、自ら熱心に教育に取り組もうとした。
あるいはヨルンドを宮廷内で「事故死」させて自分から孫へと直接継承させることも頭の片隅に浮かんだが、アールモシュの成人前に自分が死んだ時の体制崩壊のリスクが無視できず、実行へは移されなかった。
幼きアールモシュには政治の基礎から外交の技巧まで幅広い知識を身につけさせ、歴代の偉大な指導者の事績や失敗から学ぶよう導いた。
宮廷教師として一族内の才ある者が雇われ、当時貴重だった写本や、時には生きた人間を教材として供するよう、ブズリも出費を惜しまなかった。
しかしブズリは教育の成果を目にすることなく、1096年の5月に56歳でこの世を去った。
カルパチアを恐怖で支配した帝王の死因は、心労を発端にした深酒によるものと伝わっている。