建設者ヨートル

多くの改革を成し遂げたステインの治世は68歳で亡くなるまでの40年に及び、帝位を継承したヨートルは即位の時点で既に50歳と高齢に達していた。

f:id:holland_senbei:20220516234948j:image

即位に伴いPowerful Vassalを中心に評議会を組閣。能力と信頼度の両方が特に重要な密偵長はヴォルヒニア王の異母弟ヴィルモスを任命

偉大な父帝と比較して、彼を侮って軽んじる者も少なくなかった。
父祖の代と異なりもはやヴァイキング遠征によって富と名声を得ることはできず、傘下諸侯に負担を強いる大規模な遠征は忌避された。
ヨートルは自身へ降った天命は次代への円滑な政権移譲を行うことと認識し、カルパチア国内の安定化と国力増強に力を注いだ。


金銭収入を生む建築物と重歩兵を強化する建築物を中心にスロットを埋めていく

遠征による軍役が抑制されたことで、各集落で開墾が進められ、農地の拡大が図られた。荘園には多くの館が立ち並び、広大な庭園と野菜畑も併設されて人々の口を満たしていった。
首都ホルグスホールには市壁が造られ、周辺の集落からの人口流入と共に新たな交易路の建設が推進されていった。 

ある時ヨートルが首都の南にあるセーケシュフェヘールヴァールを巡察していると、屋台で商いをしていた農民が並べていた、生命の木を模した彫刻に目がついた。
「これは何だ?」
世界樹を模した像です。お守りとして、大切なものを守ってくれるはずです」
「これはそなたが彫ったのか?」
「ええ、私の家は代々こういうものを売っているんです。長い時間がかかりますが、真心を込めて作っています」
ヨートルは木彫りの像そのものについては興味を持たなかったが、彼女との会話を通じて商いの手腕を学ぶことに興味を持った。
「なかなか良い出来だ」
ヨートルは彼女に銀貨を渡しながらも、なお質問を重ねた。
「ところで、これは何の木を彫ったのだ?樺か?胡桃か?木といえば入会地の管理は…」
このようなヨートルと店主のやり取りはなお続き、領地における商業を考える経験のひとつとなった。

Borgund Stave Church,
©Lubke, Wilhelm. Outlines of the History of Art. A new translation from the seventh German edition, edited by Clarence Cook. New York: Dodd, Mead, and Company, 1881, volume I, fig. 180
CC BY NC 2.0

父帝ステインが生前に建立を始めた大神殿もついに完成し、神像を奉納するための儀式が数多く行われ、尖塔のついたその威容は周囲の景観を圧倒するほどであった。
タールトシュの聖地の象徴となったこの大神殿では定期的に祭祀が催され、その中でも霊帝による神との交信は、為政者の神性に対する大衆の信仰心を高揚させた。


金銭収入や徴募兵などが増加する大神殿

付随して各地のタールトシュ達もこの大神殿を訪れて祈りを捧げるようになるなど、この地を訪れる人流は増加し、経済面でも帝都の繁栄を支える大きな力となっていった。

画像中央上のやや黄色がかった部分が首都ホルグスホールとその近辺(経済開発度15)。開発度30以上を誇るコンスタンティノープルやローマには遠く及ばないが、フランスのパリ周辺と同程度の発展は(首都近辺のみであるが)実現している

こうした種々の施策により、ハンガリー西部の経済発展は徐々にではあるが進んでいった。
特に、西方から東方へと流れるドナウ川を利用した水運は発展し、ハンガリーにおける貿易の大動脈としての重要性を増していった。


領地が増えるたびに強化されていく聖戦士団。弓騎兵が中心だが軽騎兵の連隊も増えた

また信仰の守護者たる「生命の樹の戦士団」の増強も進められた。
帝都に隣接するペシュトを含め、各地で土地が戦士団に寄進され、その力は時を追うごとに増していった。
神の剣となり盾となることを使命とするこの聖戦士たちは皆が各地から選抜され訓練を積んだ騎乗戦士であり、ヨーロッパの平野やステップを自在に駆ける彼らは異教の敵対者にとっての脅威そのものであった。

 

後継者


長男モーゼスを廃嫡した上で、宗教改革によるTenetの変更で可能になった出家コマンドを実行

ヨートルの後継者候補に関しては長男モーゼスが凡庸な人物と見切られる一方、次男ステインは正直にして社交的な勤勉家であり、将来の名君と見初められていた。
ヨートルはモーゼスを早々に廃嫡、召命を受けさせ神殿に送り、後継者をステインと定めた。


ステインも父の期待に応えて傑出した外交調整者として成長し、宮廷の尺取人として諸侯の饗応を務めるようになった。ヨートルはソルビア(ポーランド西部)の王となっていたデーン人の娘スヴァンヒルドをステインと婚約させ、帝室の威信の強化を図った。

次代の霊帝の準備が整った一方で、ヨートル本人の醜聞はなお拭い難いものであった。
父帝ステインの生前、妻ディオニュシアに密通の罪で糾弾された愛人シシーラは、今や正式な側室としてホルグスホールの皇宮の一室を占めるに至り、ヨートルの寵愛を正妃と分け合っていた。

ヨートルとシシーラの間に生まれた娘アグネスが父のために制作した輝かしい数々の装身具には「我が愛するシシーラ」と銘が刻まれており、ヨートルが彼女を強く慕っていたことが覗える。

またヨートルが即位前にハフリッドという娘を殺めていることも明らかになっており、後ろ暗い密事があるのではないかと口々に噂されていた。

宮廷は諸侯の交流と密談の場所でもあり、そうした権力者への陰口が生じるのは自然なことでもあった。この日カルパチア帝国の3人の封臣は、皇宮の一角で談義を交わしていた。

「陛下は女遊びがいささか……皇妃が気の毒ではないか」
「されど即位されてからは随分と落ち着かれたのであろう?」
「どうだか。例の殺された娘というのも陛下の猥りがわしさから迫った末に……」


同族で話が弾むトランシルヴァニア山公ポルブランド、ヨートルの三男でシュタイアーマルク公のエイナル、そしてザポリーツィア王エイリーフ2世の3人

「…幸い、ステイン殿下はまこと優れたお方であらせられる。弟の貴方から見てもそう思われるのでしょう?」
「もちろん」
「ああ、あの方は話していて快い。このまま帝位を継がれれば我らの国許も安泰というものだ」
「ただ、ステイン殿下が母君の血に訴えて、グルグの玉座をも争うことにはならないでしょうか?そうであれば、我々の足下にも危険が及ぶやもしれません」


ビザンツ皇帝レオン7世の娘ディオニュシアはビザンツ皇帝位への強い請求権を持ち、これは子のステインにも弱い請求権となって引き継がれる

「まさか」
「…先帝はそれを見越して、ディオニュシア様とテオファノ様を連れ帰ったのかもしれんな」
「戦ったとして、グルグ人達に勝てるでしょうか」
「わからん。だが覚悟はしておくべきだろう。栄えある重騎兵軍団との戦いともなれば、誉れ高きものでもあろうがな」

その言葉は半ば冗談ではあったかもしれないが、同時に多くの者が心の底では抱いていた懸念でもあった。
その日は珍しく、太陽は厚い雲に覆われていた。
灰色の空からは雨粒が落ち始め、人々は軒下で雨宿りする羽目になった。

 

分家勃興


1009年7月、弟ヴィルモスが北のヴォルヒニアで分家ミクリ家を創設

改革者ステインによる封建化をきっかけに、ラウマリキの諸侯にも「家」の意識が強く生まれ始め、各地で新たな名を冠した分家が興りはじめた。

ヨートルの異母弟でステインの四男にあたるヴィルモスがヴォルヒニアで興したミクリ家、ヨートルの従兄弟ポルブランドがワラキア内の南カルパチア山中で興したドーリー家、そして始祖ラグンヒルドの三男ビョルゴルフ流のイングヴァールがニトラで興したスカルフ家などが好例である。

他にも、ディオニュシアに男色の罪で訴えられ、父帝ステインによりジェール公領から追放されたコールが再起を図り―驚くべきことに遥か遠くイングランドマーシアを冒険の末に征服して―興したシュールズベリー家や、ヨートルの叔母ヴィグディスがポラニアに渡り、その子ファスティが興したストゥルグ家など、カルパチアより離れた場所でもラウマリキから生まれた分家は勃興していった。

追放された父コールの後を継ぎジェール公となったアスビョルンが霊帝に反抗する領主達の派閥に参加していることが明らかになると、ヨートルはこれを切り崩すために彼の子フリドリクと自身の娘クラーカを婚約させている。

f:id:holland_senbei:20220517000703j:image

また、ポラニアのストゥルグ家・ファスティの娘アスラグをヨートルの三男エイナルの婚約相手として迎えるなど、国内外で婚姻を重ねることで不可侵・同盟の構築に勤しんだ。こうした政策はヨートル自身のみならず、その子孫たちの後ろ盾を確保する点でも有益であるとみなされた。

 

時代の変遷


ハンガリー東部のマジャル人達も転向し、マジャル文化は全てフェルヴィデク文化に塗りつぶされてしまった

今やフェルヴィデキはかつてマジャルと呼ばれた人々をも飲み込んだ概念として、ハンガリーの大半を支配していた。
彼らは領地の境界線を定め、日々の紛争を解決し、あるいは戦争に備えて軍隊を組織し、これを維持するために税を集めた。


1016年1月、初期封建制時代に到達

遠くギリシア人やフランク人、アラブ人の土地では砦に胸壁付きの塔が備え付けられ、荘園を管理するために王の廷吏が土地を駆け回っている。
このような時代の変化の中で、カルパチアの人々の生活もまた徐々にではあるが変革を遂げていくこととなった。

1017年の夏の終わりに、ヨートルは父ステインと同じように酒が死因となって亡くなった。
その治世は12年と短く、目覚ましい成果を伴うものでもなかった。
だが彼は領内を広く整備し、世評も良いとは言えないながらも堅実な統治に労を割いた。
精力的で冷静に勤める小ステインがその跡を継ぎ、父の遺した遺産を上手く活用してカルパチアをより善く導くことが期待された。

 

次回 聖帝ステイン