悲哀のゲルゲイ

従順な下僕

宴席を催すことは、人々と交流を深める素晴らしい機会だ。しかし、宴席における行動には細心の注意を払わねばならない。もてなす側ももてなされる側も、失言をしたり、不手際があれば醜態を晒す羽目になる。逆にそれらを防ぎ、彼らに心地よさを抱かせておけば、彼らは必ずや恩義を感じてくれるだろう。

皇宮の使用人達の前で、少し不恰好な顔をした男が宴について語っていた。
彼の名はステインの子ゲルゲイ。
父帝ステインから帝位を継いだ当代の霊帝である。

丸焼きにした豚を切り分ける時は、必ず粗熱をとってからにすること。肉汁を余計に逃すことを防ぐためだ。切り分けるためのナイフをきちんと研いでおくことも、肉の繊維を必要以上に傷つけず食感を損なわないためにやはり大切だ。最初は肩と足を取り外すために、骨の周りから垂直に刃を入れて…


ゲルゲイは従順で気前が良い人物であった。特に宴を好み、賓客に対して滞りなく饗することが彼の生きがいであった。
広大な領域と臣民を支配する帝王としてではなく、あるいはささやかな農場の主として生きた方が幸せだったかもしれない。


11世紀中葉の世界

ゲルゲイが帝位に就いた11世紀中葉において、カルパチア帝国の脅威となる外敵はヨーロッパ世界に存在しないと言ってよかった。
西ではフランク人達が相も変わらずゲルマニアを分割して争い、その間隙をつかれてピレネーを超えたイスラム勢力に南仏を占領されていた。東の遊牧民帝国は凋落して久しく、北のスラブ人達は千々に乱れたままである。
東ローマ帝国はもはや存在せず、その残滓のみが小アジアにわずかに面影を残すのみとなった。

あえて付け加えるならアラブ世界の覇者たるアッバース朝イスラム帝国と、カトリック諸王国が集結して結成される十字軍がその例外である。ただし前者はカルパチア帝国と相争う要因に乏しく、後者に関しては彼らの最重要の聖地を巡ってイスラム教徒と戦うことが第一義となっており、それを置いてカルパチアにその矛先を向けることは考えにくかった。
そのような状況であったので、ゲルゲイは外国からの脅威をあまり気にせず国内の統治に集中することができた。

ゲルゲイが最初に手をつけたのは国内諸侯からの支持の取り付けであった。
ゲルゲイは宴席において諸侯たちと自由闊達に語り合い、互いの信頼関係を深めていった。彼の気前のよさは諸侯たちに好印象を与え、多くの封臣から後援を得ることに成功した。


特に有力な貴族であるシュタイアーマルク公デネス、クロアチアカリストス、ジェール公フリドリクにはそれぞれ帝国の宰相、家令、将軍の地位が与えられ、ゲルゲイの政権下における重要な地位を占めることとなった。

ヘラスとテッサロニキの王を兼ねた―最も強力で最も自立心の高い―弟アスビョルンに対しては帝国の評議員の地位は与えられなかったが、代わりに父ステインがかつてギリシア人の宝物庫から奪った調度品が下賜され、兄弟間で不戦の契りが結ばれた。

全ての兄弟仲が良好というわけにはいかなかった。
ステインよりエピロス王位を与えられていた末弟イングヴァールは婚外の姦淫の罪を犯しており、ゲルゲイはこれを口実にイングヴァールの拘禁を試みた。

カルパチアの評議会はイングヴァールが素直に従うことは皆目期待しておらず、彼が暴発して霊帝に反発する不穏分子を誘引することを期待した。将来起きる大火事を事前に「小火」で済ませようという魂胆であった。
ゲルゲイの裁定を拒絶したイングヴァールは霊帝に対して反抗的だったアプリア公テレスフルやモラヴィア王スキョルドなどと結託して兄に対する反乱を起こし、この乱は1年半の後に鎮圧された。

アプリア公とモラヴィア王は罰金を支払うことで許されたが、イングヴァールは領地の没収と全ての継承権の放棄が放免の条件となった。

インクヴァールの反乱はこのようにして決着を迎えた。彼は後にエピロス公となったスヴェイン(父帝ステイン2世の弟ゲルゲイ流)の子ミクロスの下に流れ、伯としての地位を獲得している。

呪われた王国

ゲルゲイの即位に伴って生じた混乱は落ち着きを得たように見えたが、旧ビザンツ領では暗雲が立ち込めていた。
ヘラスとテッサロニキの王であったアスビョルンが突如として死亡したという報せが伝わったのである。
その真相はいささか不明瞭だが、「首なしガンダルフ」なるものを崇める狂信者集団がアスビョルンの居城に押しかけ、錯乱した男たちの1人がアスビョルンの首を斬り落としたというのである。


後のバージョンで調整があったか筆者にはわからないが、やたら発生率が高い狂人による首狩り族イベント。ゲルゲイの元でも発生しキャラクターの武勇で撃退していた

俄には信じがたい出来事であるが、王が没した以上誰かが次の王にならねばならなかった。
この時、コンスタンティノープルを含むテッサロニキの王位はアスビョルンの長男タマスに移ったが、もう片方のヘラスの王位はゲルゲイの次男ステインに継がせることを当地の民会が決めたことがゲルゲイを重ねて驚かせた。

カルパチア帝国内の様々な領土称号についてスカンジナビア選挙法が上乗せされており、称号保有者の変遷は通常の相続と異なる

民会による王の選出はカルパチア帝国傘下の各諸侯にも広く伝わったノルドの慣習であった。
各地での紛争を解決し、意思決定を行う際に現地の有力者達による合議を推奨する…という名目で諸侯の実子への軍事力と経済力の集中を妨害することで、「強すぎない」者が各地の公や王となったり、あるいは実子に相続されなかった地位を巡って諸侯同士が争い消耗する構造は、諸王の王たる霊帝にとっては都合が良い制度であった。

しかしそれが元で自分の子が弟の王位を継ぐことになることはゲルゲイにとっても予想外であった。
アスビョルンが死亡したことで不安定化したヘラスの情勢を鎮定するため、霊帝の実子を半ば人質として招き、その庇護を受けようと期待する何らかの工作が行われたのではないか…という推測もあったが、具体的な事情は不明であった。
いずれにせよ、やがて帝位を継承するゲルゲイの嫡男ブズリよりも、未だ幼いステインの方がヘラス諸侯にとって操りやすい神輿であることは間違いなかった。

ヘラスに送られることとなったステインは未だ縁組を終えておらず、帝室の文官達は大慌てで婚約相手を探し求めることとなった。
何よりも、その身の安全を保証するための後ろ盾となることが相手の家に最も期待された。補佐官たちは数多くの貴族令嬢たちの出自や容姿、性格、教養などを列挙し、彼女たちの中からステインにふさわしい人物を選び出すために多くの時間を割いた。
諸侯たちもこの機会を逃すまいと、自分たちの娘をステインの婚約相手として推挙するために奔走した。宮廷の中では交渉や取り次ぎ、贈り物のやり取りが慌ただしく繰り広げられ、補佐官たちはますます手を焼くこととなった。

最終的に、ゲルゲイの密偵長を務め、軍事的にも有力な存在であるトランシルヴァニア公ステインの娘ポルディスが結婚相手として決まった。
アールパード・フェーヘル家に生まれた彼女は美しさと勤勉さ、そして誠実さを併せ持ち、帝室との婚姻関係がヘラスの安定に貢献することが期待された。二人の婚約が決定すると早速宮廷内の儀礼が整えられ、盛装した二人はホルグスホールでの婚礼に臨んだ。

ポルディスは白い花嫁衣装で身を包み、宝石がちりばめられた金の宝冠を着けてステインと向かい合った。彼女の顔立ちはまだ幼かったが、肌は白く透き通るようで、その姿はまさしく帝国の宝玉とも言うべき輝きを放っていた。
しばらくの後に宴席が始まり、諸侯たちはステインとポルディスの婚礼を大いに祝福した。楽士達が種々の楽器を奏で、踊り子達が舞い、宮廷の料理人達が特別な料理を振る舞った。
夜が更けたところでステインとポルディスは広間から引き上げ、儀式としての婚礼はお開きとなった。彼らは笑顔で手をつなぎ、幸せな未来を誓っていた。


何者かに暗殺されるステイン。なぜだ…

だが、2人の幸せは長く続かなかった。
ステインのヘラス王即位とポルディスとの婚約から3年後の1061年8月、ステインは乗馬中に馬から振り落とされて頭に重傷を負い、そのまま帰らぬ人となってしまった。

不可思議な事故ではあった。
従者達からの報告では、ステインは幼いとはいえ乗り慣れた大人しい馬での行楽であり、不慮の事態が起きるとは考え難い状況であった。
突然馬が暴れ出して崖に向かって飛び込んだらしく、何者かが故意に馬を暴れさせた可能性も否定できなかった。
ゲルゲイは自身が処断したイングヴァールによる報復も疑ったが、結局第三者の悪意を紐づける証拠は見つけられなかった。

アスビョルンと我が子ステインの相次ぐ死を、ゲルゲイは「父帝ステインが弾圧したキリスト教徒達の怨嗟による祟りではないのか」とこれを大いに恐れた。
ゲルゲイはヘラスやテッサロニキセルビアクロアチアなどの旧ビザンツ領に対して布告を発し、霊を供養するための祭祀を行うことを呼びかけた。
十字を掲げることやキリスト教守護聖人達を讃えることは禁じられたが、先帝の治世の中で斃れていった者たちのため祈り、涙を流し、葬儀を執り行うことは咎められなかった。
こうして各地から多くの聖職者が集められて鎮魂の儀式が行われ、花々と香で死者達が弔われた。

影の歴史

ステインを失ったヘラスの諸侯が次に王として選出したのは、ステインの兄でありゲルゲイの嫡男であるブズリだった。
ブズリは親に似ず残忍で偏執的であり、君主としての資質に欠けると見る向きもあった。
しかし結局はステインの招致と同様、ゲルゲイの子を王として戴くことが重視されたようだった。あるいは、既に成人し政治や軍事にも頭角を見せつつあったブズリがヘラスの民会に工作し、自身を支持するよう仕向けたのかもしれない。
旗頭を立て続けに失っていたヘラスはこのようにして新たな為政者を迎え入れることとなった。ステインの死にゲルゲイは深く呆然としていたが、いつまでも悲しみに浸っている訳にもいかなかった。


ノルドの民会イベントは選択肢によってストレス解消ができたりする

民会での裁決を下すこともゲルゲイの責務であった。
自由民たちは地域の問題を議論し、市場を開拓し、特権をめぐって争うために集まってくる。
このような大きな集まりは白熱するもので、ある日の民会ではトルナの民がショモジの民から呪詛をかけられたという訴えが取り上げられた。
この時のゲルゲイは議題に興味を持たず、舌戦を交わす両陣営に成り行きを任せ、午睡にふけることで休息の時間を得るなど「不心得」な振る舞いもあったようだ。


父ステインの代から引き続き家令を務めるクロアチアカリストス2世

またある時は農場の家屋敷の建設を命じたり、猟で使役する猟犬の繁殖と訓練を奨励するなど、領内開発に時間と金を割く期間が続いた。

帝国の家令を務めるクロアチアカリストスの働きもあり、セーケシュフェヘールヴァールの街では商いの中心地を整備する工事が進み、当地の人々の生活水準は向上していった。
内政を通じてある時は怠け、ある時は多忙に駆け回ることで、ゲルゲイの心の傷は少しずつ癒やされていった。

ステインの事故死から6年後、ゲルゲイは諸侯を招いての大きな宴を主催することにした。
この宴はゲルゲイがステインの死から立ち直ったことを現すことも企図していた。長い時間をかけて領内開発、あるいは小規模ながら帝国外縁部での外征に取り組み、諸侯たちに自分が再び覇気を取り戻したことを示すのである。
広間の調度品は美しく飾られ、床には華やかな柄の絨毯が敷かれていた。ゲルゲイ自身も新しく煌びやかな衣服を用意し、宴の始まりの時を待ち侘びた。
馬車が往来し、多くの人や物を運び込む音が聞こえる中、ゲルゲイは汗を流しながら宴が成功することを確信していた。

広間の支度もそこそこに給仕達に任せたゲルゲイは、宴に必要不可欠な葡萄酒を取りに城の離れにある蔵に向かっていた。
人通りや衛兵が少ない場所ではあったが、ゲルゲイは晴れやかな表情で歩いていた。葡萄酒が保存された樽は生産地や熟成された年月などから多種に及ぶため、今日この日の宴に最適な酒を選ぶのは手ずから行った方がよいと考えたし、そのような作業もまたやり甲斐のあるものだったからだ。

蔵に入った後、突然背後から従者の呻き声が上がった。
何事かと飛び出すと、そこには血溜まりに倒れた従者と、返り血を浴びた男がいた。辺りを見渡すと、剣を抜いた一団が蔵を取り囲んでいる。
ゲルゲイは即座に状況を理解し、恐怖で囲みの手薄な方向に向かって駆け出した。その時、どこかから弦の澄んだ鳴き声が聞こえてきた。
ゲルゲイは背中に矢を受けると、その痛みでうつ伏せに倒れてしまった。

自分は、もっともっと生きていくつもりだったのに。誰が?何のために?まさかステインを殺したのと同じ者が?
自分の人生は何だったのか。何故こんな目に遭わなくてはならないのか。
虚空に問いながら、薄れゆく意識の中でゲルゲイはなんとか身体をよじって動かそうとしていた。
地面を這って逃げようとするゲルゲイに対し、暗殺者は背中から剣を突き刺した。

1067年11月、霊帝ゲルゲイは46歳でこの世を去った。彼の嫡男ブズリが帝位を継承した。

 

次回 串刺しブズリ