のろまのルステム(前編)

石橋を叩いて渡る

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Slow<愚鈍>は全ての能力値に-3もの修正がつく不利な特性。ボザンの死の前に後継者を別の子に切り替えておくべきだったかと後悔した。

有能な軍事指揮官として活躍するはずだったボザンが倒れ、わずか9歳の子がルステム2世として即位せざるを得なくなった。ダイラムの旧臣たちは混乱に見舞われながらも摂政や評議員としてルステムを支え始めたが、ボザンが生前に構想していたペルシャ侵攻の方針は停滞を余儀なくされた。

このような事情により、摂政達はともかく外交関係の安定化を求めた。この非常時に外敵からの侵略や内乱があれば、それは王国にとっての致命的な傷に繋がりかねない。幼いルステムが城の庭で鳥を眺めたり草木を愛でている間、評議員達は使者を国内外に走らせ、細心の注意を払って予防処置にあたった。

 

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ルステムの生母はアル=カーミルの娘であり、アル=カーミルの孫ムハンマドとルステムは従兄弟の関係にあたる。

処置のひとつはアイユーブ朝と婚姻関係を結び直し、不可侵協定を再締結することだった。ルステムの弟ハサンとアイユーブ朝のスルタン・ムハンマドの妹を婚約させることに成功し、イスラム世界随一の守護者との紐帯はひとまず維持されることとなった。

 

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もうひとつはアイユーブ朝傘下のジャジーラ大首長パミンとの和睦である。ボザンの死の原因となったクルディスタンは四つ巴の戦いの結果、かろうじてダイラムに属することとなっていた。それでもこの地に強い執着を持っていたパミンは尚もクルディスタンの支配を求め、死の前のボザンに対し戦いを挑んでいたのである。

パミンが動かせる軍はそれほど大きくはなかったものの、逆に彼の支配する領地を即座に制圧し尽くすほどの兵力がダイラムにあるわけでもなかった。評議員達は勝っても領地を得ることのない戦いが長期化することを嫌い、パミンの領国に逆侵攻して奪っていたいくつかの城を引き渡すことと引き換えに和平を提案した。

戦争の目的だったクルディスタンの制圧を達成できていなかったパミンもこれを受け入れ、これによってダイラムの評議員と摂政達はこの争いを沈静化することに成功した。

 

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「あれを放置すれば我が領内は腐り落ちますぞ!」と幼いルステムに諫言する将軍ファローク

それでも全てが円滑のまま時が流れたわけではなかった。

ボザンによってヒヴァ軍政官に封じられダイラムの将軍を務めていたファロークはある日ルステムに直訴し、宰相にしてディヒスタン軍政官のウマユンの不正を断罪せよと鼻息荒く迫る一幕があった。

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ヒヴァ軍政官とディヒスタン軍政官として王国内で領域を接するファロークとウマユン。2人は共にボザンによって取り立てられた人物であるが、今や犬猿の仲になってしまっていた。

配下領主の紛争とその解決には常に頭を悩ませられるものだ。おそらくは境界紛争絡みであろうが、余計なトラブルに王が関わることが懸念され、ファロークの訴えが取り上げられることは結局なかった。

より若く人当たりの良いウマユンの方が重宝され贔屓されたのだと見た者たちも多かったが、評議会の構成員同士での火種をいたずらに刺激するよりは放置するくらいのほうが安全だ、と思われたのかもしれない。

 

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改良されたシルクロードの威力。ダイラム王国の立地を活かし、直轄領が2倍になったような税収入が発生していた。

大きな戦役に巻き込まれることが避けられた分、領内の開発に資金が回されることでこの時期のダイラムは発展を遂げた。

その基礎となる収入に貢献したのがシルクロードで、直轄領内に抱える交易所3つから得られる利益は今や9つの州から得られる税と同じだけの富をもたらしていた。

 

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王都の療養所にも莫大な費用が注がれ、当代随一の医療設備と専門家たちが揃うこととなった。これが後にルステムを大いに助けることとなる。

 

羽化

"のろま"と侮られボザンの旧臣たちによって庇護されていたルステムであったが、その成長ぶりには周囲の大人たち皆が驚くほどのものがあった。

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宮廷教師アイシェの下でその才能を開花させるルステム

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思考の探求に多くの時を費やし、ついには生まれ持ってのペナルティだったSlow<愚鈍>を自らの成長で除去

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Shwerd<鋭敏>にAmbition<野心>も獲得し、各能力値が目に見えて伸びる

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成人に伴い外交系統最高レベルの教育系特性であるGrey Eminence<影の実力者>を獲得。
ルステムの肌は色黒だが、これはアイユーブから嫁いできた母のエジプト人の血が濃く出たようだ。
第1妃のセラプはルーム・セルジュークから迎えた娘。

幼少期に見られた愚鈍さはルステムが成人した頃にはすっかり影を潜め、礼儀作法や語学、弓馬の訓練、軍隊の指揮や兵站の管理、領地の経営やシャリーアの知識に至るまで、幅広い領域で能力の非凡さを見せていった。

ごく一部の神秘主義に傾倒した異端者達からは「天使ジブリールの加護を受けた子」などと喧伝されることもあった。あるいは幼くして王位を継いでしまったことの重圧が、幸運にも君主としての成長に昇華されたのかもしれない。

 

親政の始まり

ルステムが成人する少し前から、西に接するルームのセルジューク朝では異変が起きていた。

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まさかの先祖返りを起こすセルジュークの棟梁。王号も"スルタン"ではなく"ハーン"となっている

セルジューク・アイユーブ間での協調関係は永くは続かず、先だってアイユーブ朝はセルジューク領を切り取るべく戦端を開いていた。そこで先の王であったセルジュークのソクメンが戦死し、彼の弟であるクタイが王位を継承し即位した。

が、このクタイ王はクマンの文化に染まり、アッラーではなくステップの天空神を奉っているという。

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アナトリアからカフカスにかけて地歩を固めていた強国が一転して異教の隣人となった

三国同盟による蜜月関係はこれにより露と消えることとなった。

困惑したのはダイラムの評議員達である。クタイ王は表敬のため訪問した使者を迎え入れ贈物を受け取りはしたものの、ムスリムとして帰依する気配は微塵も見られないという。正教国であるビザンツとは敵対を続けてくれるだろうが、異教である以上はこちらにもいつ刃を向けてくるか知れたものではない。

ルステムの妃に迎えたセラプはクタイの妹であり、その婚姻を元にした不可侵協定は継続されたものの、一抹の不安を抱えるものとなった。

 

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ルステムが成人した直後の1279年12月、セルジューク内では異教の王に反発して王権の低下を要求する大規模な反乱が発生している最中であったが、それに乗じてかセルジュークより離反し独立せんとする別の反乱も発生していた。

独立の旗を掲げた領主のアイバクはアルメニアからアゼルバイジャンにかけて跨った領地を持っており、アゼルバイジャン内の「未回収のダイラム」でもあるカパンを保有していた。

クタイの軍が王権低下要求の反乱への対応に手一杯なのに目をつけた16歳のルステムは、アゼルバイジャン軍政官ヤクートの支配権が侵害されているとアイバクに主張。軍を動員し、動員兵力5千足らずのアイバク領へと雪崩れ込んだ。

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一部の状況では敵の敵は敵…となってしまう仕様上、ルーム王クタイの軍(左上)が敵ユニット扱いになる。
これと会敵しないようになんとかアイバク領を制圧し、兵力も削っていく。

アイバクとの戦いは番狂わせもなく翌1280年には勝利に終わり、カパンをヤクートの下に帰属させることに成功。ルステムの親政が始まってから初めての戦いはこれで幕を閉じた。

 

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アッバース朝とダイラムの間に位置するザンジャーン・アブハルは、ルステム1世とボザンに領地を奪われ続けたイルデグーツ家のナウィードが治める。当然のことながらその子ルステム2世についての憎しみも大きい。

ルステムはアイバクとの戦いを終えてから間を置かず、続けざまに南部に接するザンジャーン・アブハルへの征服と、アッバース朝内で反乱を起こしているジャイバルのモンゴル人領主達への聖戦を同時に敢行した。

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今回も反乱勢力に対する火事場泥棒なので反乱領主の元の主であるアッバース朝の軍も動いている。セルジュークほどの規模はないのでイランの山地で正面から打ち破って退散させるが、油断できるほど小さな軍でもない。

ナウィードのザンジャン・アブハルは開戦からわずか2ヶ月ほどで、ジャイバルのモンゴル人領主達は開戦から2年後の1282年11月に屈服させ、ルステムは自身の親政の始まりを南のペルシャへの侵攻によって周囲へ示すこととなった。

聖戦で獲得したジャイバル5州の軍政官の地位はルステムの同母弟であるメスードに与えられ、血縁者の傘下領主が少なかったルステムにとって同族の支配領域を広げることとなった。

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同母弟メスード。兄弟仲が悪くなりがちなムスリムでも同母弟同士の関係は比較的マシなほうだ

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Family Focusのおかげでルステムとメスードとの間にOpinionボーナスも成立。同族の傘下領主は内部紛争の種にもなりがちだが、高スコアのためには驚異にならない程度に育てていかなければ…。

 

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ルステムにはポロスクという、無二の友人と呼べる人物も1人いた。

ポロスクはゴルガーンの宮廷内で父親不詳の私生児として生まれ、名乗るべき父の名を持たない蔑まれた子であった。だがルステムが知恵の遅れを疑われていた頃からその友として育ち、その縁もあって王国東部のメリャヴ軍政官の地位を与えられている。

その二心ない忠心、そして特に蘊奥を極めた頭脳が重宝されており、当初相応しい評議員の席が空いていないことを憂いたルステムは、お互いの成人後にポロスクを自らの摂政に使命した。

ルステムがジャイバルを制圧したころ、宰相を務めていたディヒスタン軍政官ウマユンが病死するとポロスクがその職を継ぎ、その後のルステムを公私に渡り息長く支えることとなる。

 

モンゴル再び

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「ホラズムを滅ぼすもの」という異名で呼ばれるようになった皇帝カチウン

1284年12月、アラル海沿岸とペルシャ内に領地をもつホラズム朝がモンゴルによって征服されるという出来事があった。

1254年のジハードでペルシャから放逐されて以降、内部での大規模な反乱等への対応に追われて長い間鳴りを潜めていたモンゴルであったが、ここにきて再び東からイスラム世界を圧迫する存在となっていた。

ルステムは対モンゴルの防衛協定を組織し、イスラム諸侯への参加を呼びかけた。もっとも、既にムスリム勢力の統合が進んで独立勢力は減っているために、その効果は限定的であったが。

 

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イラクを本拠とするアッバース朝ペルシャ中部にも属国を有する

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ペルシャ東部からペルシャ湾を挟んでオマーンまでを支配するクトルグ・ハン家

西ではセルジュークとアイユーブが領土を固め、北と東はモンゴルが塞いでいる以上、ルステムが進出する先はやはり南しかなかった。

 

 

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 1288年の後半、イラク東北部スースの征服のため、ルステムはアッバース朝に宣戦布告し、翌89年の9月に勝利する。

 

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ペルシャ湾のクトルグ・ハン家がモンゴルに領土を削られ、防衛能力を削がれているのを見るとここにも攻め込んだ。1292年2月、名目上の"エスファハーン総督"を名乗っていたバラク2世を降伏に追い込み、彼の領土を丸ごと自らの支配下に組み込むことに成功する。

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ルステムのVassalization CBによって従属したバラク2世。保有する公爵級titleの1つはtitular titleのエスファハーン総督位。イスラム世界はtitular titleが妙に多い印象。

 

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クトルグ・ハン家の吸収により脅威度が一気に上昇、18%を突破して防衛協定が組まれる。強国の宿命か。

 

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ペルシャ王国のde jure領域の過半数も自勢力で占めるに至り、モンゴル傘下となっているホラズム朝からペルシャ王位を簒奪する。ダイラム・ホラーサーンに続く3つ目の王位となった。

 

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この頃から家名をキジルから改めた。自らの本拠である"ダイラム"を名乗り、家名と共に紋章も一新した。神の下での平等を戒める白を下地に月桂樹を添え、3つの王国を示す赤い星を象ったものだ。

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中央アジアでモンゴルとの正面を形成し、否が応でもイスラム世界の東の守護者とならざるを得なくなったダイラム朝。

 

のろまのルステム(後編)へ続く