法学者ルステム(後編)

カリフの号令

1254年5月、イスラム世界に大きな動きがあった。
ハーシム家のカリフの名において、ペルシャをモンゴルからムスリムの下へ回復すべくジハードが宣告されたのだ。

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これがあることをすっかり忘れていた

 

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ホラズムの後継者としての請求権を持つジャラールッディーンの働きかけによるものらしい。
60を超えた老齢であるはずだが、執念か。


ペルシャに居座る異教徒を一掃することを誰もが望んでいる。ルステム自身もそうであるし、これまで対モンゴルで防衛に回っていたムスリム諸侯が協調して攻撃に転じれば、勝ち目も十分あるようにも見えた。

モンゴルの兵力も磨り減り、ディヒスタンとタバリスタンがモンゴルから脱した今こそ反攻のタイミングとしても最高の時期なのかもしれない。

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ルステムにとっての懸念は、現在のイスラム世界の実質的な守護者であるアイユーブ朝もジハードに参加していることだった。仮に彼らがペルシャを勝ち取れば、その巨体を東へと伸ばすことを意味し、アラブを飛び越えてその権勢を掲げることになる。地域の軍事バランスが一気に傾くおそれがあった。アイユーブが東に拡大することはある意味、モンゴルがペルシャを支配している今よりも恐ろしいことになるかもしれない。

ルステムは熟慮した上で、このジハードには関わらないことを決めた。

信仰に身を捧げてモンゴル人を放逐し、仮に自分がペルシャのスルタンの座に就いたとして、急激に拡大した領土を守り切れる兵力があるだろうか?異邦人たちを追い出したとしても、今度は同じムスリムの君侯によって四方から突かれることになるかもしれない。
少なくとも、ルステムの手元にはペルシャを守護するまでの力はなかった。突如として隣の卓で始められた熱狂的な賭けに参加するのは現実的ではなかったのだ。

 

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ナウィードに対してギーラーン州の征服を求め宣戦布告する。こちらにはこちらの事情がある…

ルステムにとってはまずはダイラムの統一を図り、カスピ海沿岸の支配を確立することが優先された。席を立つ前に、未だ皿に残っている料理を片付けなければならない。
ダイラムを残さず平らげることができれば、今とは違う地平に立てる筈である。大きな勝負に出るのはその後でも遅くはないと思われた。
 

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1256年3月、次男ボザンが成人する。不世出の軍人として育った自慢の子だ。

ボザンはナウィードから奪っていたガズヴィーンの領地が与えられ、若くして家中の将軍としても任命された。妻としてアイユーブ朝から娘を迎える約定も立てていた。経験を積み後継者として成長して欲しい…。

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ムスリム君主制は与えた土地の数で継承先をコントロールできる

ボザンより4歳年上のバヤズィトは無能というほどでもないが、肩透かしの育ち方となってしまっていた。そのためボザンにかけられた期待はなおさら大きなものとなった。

 

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1256年4月、ルステムはナウィードに三度勝利し、ギーラーンを獲得する。これによりギーラーンの軍政官位を剥奪するとともに、ダイラムの「王国」の設立とルステム1世として王位への即位を宣言した。

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ダイラムの過半を制圧したことにより王号を設立する

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ダイラムのスルタン、ルステム1世

 

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ルステムが戴冠してから3ヶ月後の1256年7月、南ではペルシャ奪回のジハードがムスリム側の勝利に終わり、最も勲功を立てたジャラールッディーンが凱旋することとなった。ペルシャのホラズム朝がここに再興されたのである。

 

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「口論王」ホラズム朝ペルシャ王ジャラールッディーン

 

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ペルシャ地域の再統合が徐々に進んでいる。モンゴルはイラクに僅かな領域を残したのみで中央アジアまで押し戻されてしまった

ルステムはダイラムで一歩抜きん出た存在となり、ペルシャのモンゴルは駆逐されジャラールッディーンが王として復帰した。

南北で接するホラズムがやや脅威ではあるが、最大の懸念だったアイユーブ朝が東に進出したケースよりはよほど御しやすい状況である。

このまま順当にいけばルステムのキジル朝がカスピ海沿岸を、ジャラールッディーンのホラズム朝がペルシャアラル海沿岸を分け合う形で拡大していくと思われた。

だが、ジャラールッディーンのペルシャは予想外の方向へ転じていく。

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ペルシャ王となったジャラールッディーンだが動員兵力は異様に少ない

1256年12月、ホラズム再興からわずか5ヶ月後、ジャラールッディーンに従属していたはずだった領主達が大量に独立したのだ。一説には、ジハードの終結後にペルシャの統制を維持できなかったジャラールッディーンが、在地のモンゴル人達による狼藉を抑止できなかったためと言われている。。

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復興したと思ったらあっという間に散り散りになったペルシャ

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ペルシャから大量に独立した領主の1人とその領土称号の所有者履歴。
ジャラールッディーンがジハードで獲得したことを示す"Conquered in a Holy War"の翌日、現所有者に称号が渡っていることがわかるが、変更の理由部分が"Granted"でもなく空白になっている。このようなテングリ信仰のモンゴル人領主が多数存在し、領土を得てから5ヶ月後に一斉に独立している。何かのイベントの結果だろうか?


善き統治

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再び東に目を向けると、インドやチベットでは巨大な王朝が元に打倒され属国とされている。
ダイラムは中華とは距離が大きく離れているために、直ちにここが龍の爪の餌食になるようなことはないだろうが、警戒はしておかなければならない…。

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これだけの動員兵力を持っている王朝でも、安西大都護府にとっては赤子をひねるような勝負にしかならない

そのような中、ルステムの現第1王妃バハールが自身が元の下へ表敬の旅に出ることを提案してきた。王の妻の職務は宮廷の中に関することだけではない、ということを示すかのような出来事だった。

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ルステムは自身と同じく既に老いた身の彼女から出た言葉に驚いたが、渡りに船の提案でもあった。シルクロードから流れ出る富を大きな武器としているルステムにとって、元の恩恵はあらゆる手段をもってしても得ておきたいものだ。だがペルシャが再び四分五裂し、王による差配が常に必要とされる重要な局面の今、ルステム自身が東方へ外遊するなどとてもできない状況であった。

バハールが出発してから後、ルステムは戦と政に奔走している最中でも、彼女の道中からの便りを常に待ち、その身を案じ続けた。

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そしてバハールがとうとう王都ゴルガーンに帰還した時、ルステムは宮廷を飛び出して彼女のもとに駆け寄り、しばらく抱き抱えて動かなかった。続いて彼女が安西都護の直筆の封書を持ち帰ってくれたのを知ると、ルステムは再び大いに喜び、危険な使命を成し遂げた王妃を労い宴を催することとなった。

 

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宮廷には聴衆が押しかける…勤勉な人間ではなくては務まらない

ルステムは父と同様に領地の経営に明るく、特に民衆からの陳情や訴訟の処理に精を出した。交易商を狙う野盗の討伐や凶作に見舞われた農民への援助、村落間での山林利用の紛争仲裁、親族間での土地相続に関する裁定…。

解決を求められる事案は無数に存在する。それらに適切な対処をするのも、地域の調停者としての威信を保つ為に必要なことだ。

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ルステムは次第に教義と法の研究の場に身を置くようになり、イスラムの法学者(ファーキーフ)としての側面を見せるようになった。紛争の解決を見つけるためにコーランやスンナを読み合わせ、適切な事例が存在しない時は同輩の法学者達と議論し、日々の問題の審判に心血を注いだ。ルステムが戦いによって覇を唱えるだけの人間でないことは徐々に広まり、民も彼に一層敬意を払うようになった。

 

血族内の争い

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ルステムが進出先として次に目をつけたのは南西のメルブだった。

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ここを治めるヤクートは父バヤズィトがキジル家を興す前の宗家であるメイマン家の人物で、ルステムの従兄弟にあたる人物だった。このため父から受け継いでいる請求権を利用できる機会となった。

ヤクートは既にモンゴル人領主からの攻撃を受けて兵をわずか1000以下にまで減らしていた。ルステムは火事場泥棒のように兵を送り込み、容易く城を陥としてメルブを奪い取った。

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メルブを掠め取られたヤクートはさらに南のバルフに逃れたが、彼はそこで弟のバルキヤールクによって退位を迫られることとなる。

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和睦時にたとえ10年の停戦期間が設定されようと、相手の当主が変わったのならもはや有効なものではなくなる。プレイヤーにとっては「獲ってください」と言われているようなものだ。JadeDragonDLCで追加されたForce Vasslization CBを利用して残りの領国を丸ごと従属させる。

ルステムはこれ幸いとばかりに再び軍を動かし、バルキヤールクを従属させる。幾ばくかの幸運にも恵まれ、リドワン系メイマン家の領域を全て併呑することに成功した。

 

 

砂漠の決戦

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1261年11月、ルステムはジョチの子であるサマルカンド首長のトドガンという男の攻撃を受けることとなった。彼はヒヴァを征服せんと1万もの兵を従えているという。

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ルステムが現在動員できる兵力と同等の戦力。首長としては最大級の脅威だ。

この規模の兵の戦いで一度突破を許せば取り返しがつかなくなる。

ルステムは全ての領地から掻き集めた1万の兵を集結させ、さらに切り札として騎射に長けたペチェネグの傭兵3000を足してヒヴァに向かわせることとした。

これが今のダイラムに用意できる最大の軍事力だった。傭兵への手付金で既に蔵の銀貨は底をつき、1度戦った後に傭兵を維持するだけの資金はもはや残っていない。最初の戦いでトドガンの軍を打ち破らなければ後がない状況であった。後は軍を率いる将達を信じて任せるしかない。

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1262年2月、カースの会戦

こうしてダイラム軍1万3千とサマルカンド軍1万はヒヴァで接触。両軍はカースの砂漠で決戦を迎えることとなった。

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戦いは幕開けから激しいものとなった。弓騎兵が集中配備されたダイラムの左翼を率いるヤンファンが一気に前進、敵右翼に騎射の集中攻撃を浴びせて潰走させるまで追い込んだのだ。

敵右翼を突破したヤンファンはトドガン自らが率いる敵中央を本隊と共に挟撃した。サマルカンドの兵は早々に総崩れとなり、ダイラム軍の追撃により砂漠は血と屍で飾り付けられた。

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こうしてカースの会戦は終結し、程なくしてヒヴァを巡る一連の争いも決着を迎えた。そこに至るまでの細心の注意を払った事前準備と裏腹に、戦場における僅かの駆け引きでトドガンの野心は打ち砕かれることになった。

 

 

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その頃、アイユーブ朝ではアル=カーミルの孫のムハンマドが王位を継承しており、彼はその残忍さから「シャイタンの子」の異名で呼ばれるようになっていた。

かつての十字軍で築かれたエルサレム王国はムハンマドによって既に滅ぼされ、反抗したクリスチャン達は筆舌に尽くしがたい拷問を受けて死んでいった。

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ムスリム化したポワティエの家門のレバノン領主。神を捨てねば生き残れない者達もいる…

十字軍と共にシリアに根付いていた騎士達の子孫の中には、ムハンマドを恐れイスラムに帰依し降ったものもいる。それほどまでに彼は恐れられた。

  

膨張

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1263年以降、ダイラムの勢力圏の拡大はさらに加速することになる。

南で接するホラーサーンとはかつて婚姻関係を築き不可侵を保っていたが、婚姻の当事者が亡くなっていたためにその名目も消失し、ルステムの新たな標的となった。同年1月から12月までの戦いで2州が制圧され、ここもルステムのもとに従属した。

  

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自身のde jure領域内を公爵領単位で奪い取れるJade Dragonの追加CBを利用してタブリーズを標的に宣戦

これまでも度々ルステムに領地を奪われてきたイルデグーツ家のナウィードは、翌1264年以降の戦いでカスピ海南西岸の支配を完全に喪失することとなる。

ルステムによるギーラーン奪取以降、ナウィードはイラクアッバース朝と同盟を結んでおり、無造作に戦いを挑める相手ではなくなっていた。実際、ルステムが領地を預ける後継者のボザンが侵攻したことがあったが、アッバース朝の参戦により撃退されてしまっていた。

だが1264年1月、アッバース朝が十字軍に対する防衛参戦で遥か西でキリスト教徒と戦っていることを知ると、ルステムはここぞとばかりにナウィードの領地へ出兵。タブリーズの2州と軍政官位をナウィードから奪取した。

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公爵級の称号を全て失い、1州のみを支配する伯爵級領主に転落したナウィード

 

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翌1265年6月、ナウィードとの従属関係が解消されていたアゼルバイジャンとスィルバンの2州の領主をルステムは外交的に服属させる。従属を拒んだダイラムの西北端のシャマークィの領主は武力で屈服させ、これを奪い取った。こうして1263年から65年までの3年間で新たに5州を支配下に置き、ダイラムでの主要な軍事行動は終結した。 

 

元への旅

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齢60を手前に控え、自らの後継者に何が残せるかを考えたルステムは、今度は自ら元へ朝貢に向かうことを決めた。

寿命が尽きるまでに、有形無形問わずボザンの役に立つものをほんの僅かでも積み上げておきたい。大都に赴き、皇帝の前でこの頭を下げることなど安いものだと感じていた。そして何より、自らの目で壮麗な中華の都を一度見ておきたかったのだ。

 

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道中の過酷さは自然より生じるものだけではなかった。モンゴルの領域を否が応でも通らざるを得ず、従者と共に常に刃を懐に抱えて寝泊まりすることとなった。旅の途中、領主に館への逗留を勧められもしたが、はかりごとを恐れて固辞したほどだ。

 

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どうにか無事に大都へたどり着いた時、ルステムはその都の巨大さにまず驚き、そして通りの広さが虚仮威しでないことを知った。荷馬車で輸送され、市に並ぶ食料品、衣服、武器、宝飾品などの膨大な品々と、それを消費する多様な人種の人々とすれ違う。ここには漢族やモンゴル族だけでなく、ウイグル族チベット族、そして中にはルステムと同じように中央アジア出身のムスリムまで住み、商を営んだり役人として勤めているようだった。都の中にあるものだけでなく、ここを外部と往来する人々が安全に交通できるような制度と、それを可能にする途方もない富を想像してルステムは打ちひしがれた。

 

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都の中には仏教や道教の宗教施設に加え、天空神の祭儀場やイスラムのモスクまで存在した。ルステムは道教の道観を見物し、彼らの宇宙に祈りを捧げる様子を学んだ。

この都市には全てがあるように思えた。ここの偉大さと比べたら、シルクロード下流でささやかにその恩恵を享受するゴルガーンなど、取るに足らない地方都市の一つに過ぎないのだろう。

 

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元の役人からは管子を読み議論に参加するよう招かれ、スンニーとして意見を述べたりもした。彼らからすれば異なる宗教の者と哲学を語ることなども日常茶飯事なのだろう…。

 

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そして1267年9月、ついに元の皇帝ガオズゥへの謁見が叶い、ルステムはうやうやしく頭を垂れた。

「汝の奉仕を受け入れ、陳の名においてダイラムの王に封ずる」

それは短く極めて儀礼的なものであったが、ルステムの心はダイラムを出発した時より一転して物憂げなものとなっていた。

 

信仰の守護者

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ラテン帝国を打ち払いギリシャを回復したビザンツ(紫枠)。それに対抗するため同盟を形成するアイユーブ(白枠)・セルジューク(黒枠)・キジル(黃枠)の三家

1265年以降、イスラム世界は主に3つの勢力によって秩序が形成されていた。アナトリア半島中部からカフカース山脈を飛び越えアラニアまでを支配するルーム・セルジューク朝、アラブの大部分を支配するアイユーブ朝、そしてダイラムの支配を確立したキジル朝である。

他方、アナトリア中部からバルカン半島にかけてはビザンツがその勢力を回復させ、アナトリアで正面を形成するセルジュークと度々聖戦を繰り広げている。ビザンツはかつて第4次十字軍によるクリスチャン内部での内紛でコンスタンティノープルを失陥するなど危機的な状況に陥っていたが、それも過去の話だった。エルサレムの解放を訴え幾度と十字軍を送り込んでくるローマのカトリック教皇と共に、ムスリム君主にとっての重大な脅威であることに変わりはない。

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この時期、ルーム・セルジューク朝アイユーブ朝、キジル朝の三者は相互に同盟を結び、それぞれの相互利益のために協調して活動することとなった。クリスチャンからイスラム世界を守護することに重きが置かれたのだ。

 

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1266年4月、ビザンツ皇帝バルダスがアナトリア公爵領を標的として聖戦を仕掛けてきたのに対応するため、セルジュークの参戦要請に応じアイユーブと共に防衛側で参戦

ビザンツと直接国境を接するセルジュークや、エルサレムを守護するアイユーブと違い、ルステムのキジルが異教徒との係争地を抱えている訳ではない。だが西の二国が崩れ、クリスチャンが勢力を拡大することになれば、やがては自らにも火の粉が降りかかりかねない。それぞれの支配領域が成熟していた三国間では勢力圏の棲み分けが成立しており、西方での防衛力を提供し、今こそスンニーの宗教的連帯を守ることがダイラムにとっての利益にもなると見做されていた。
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ビザンツは2万を超える兵力をアナトリアに展開してくる。セルジューク単独では敗北は必至だ。

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アイユーブと共にセルジューク領の防衛に赴く。三国の力を合わせての決死の防衛戦。

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1267年2月、コンヤのガスパダーレで待機していたダイラム軍1万はヴァリャーグ親衛隊を含むビザンツ軍2万の襲撃を受けて大敗を喫する。同盟軍と常に歩調を合わせなければ命取りになる…アナトリアに栄えあるカタクラフトを展開するビザンツ軍は、これまで戦ってきたどの相手よりも段違いに強敵だった。

 

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失敗を教訓に、今度は同盟軍と共に行軍する。セルジュークと共同でビザンツの部隊を拘束し、その間にアイユーブの増援を引き込む。

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翌1268年4月、メルスィンのラマスでの戦いでは3倍の兵力差でビザンツの兵力を大幅に削ることに成功し、情勢を押し戻すことに成功する。

 

ただし、大都への朝貢から帰還したルステムがアナトリアでの戦闘について耳に入れたのはラマスでの勝利に関するものが最後となった。

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いつも通りの7月の猛暑の中、ルステムは西の帝国との戦いの終結を聞くことなく、ゴルガーンの宮廷で61歳で亡くなった。ルステムの朝貢中から摂政を勤め、ビザンツとの戦役を統制していた次男ボザンが継承し、王国の担い手は若き軍略家に移り変わることとなる。

モンゴルからの独立を果たし、ダイラムに権勢を奮って王として旗揚げを果たしたルステム。その栄誉は後世まで語り継がれるであろう…。

 

蛮勇のボザンへ続く