饗宴王アルングリム

アールパードの反乱

大平原に雪の積もった936年1月、ジェンジェジュの野で2つの軍がぶつかり合った。
ハンガリー王アルングリム軍と、トランシルヴァニア公アールパードおよびビハール公ゲーザの反乱軍の戦いである。


弓騎兵が大きなダメージボーナスを受けられる大平原は弓騎兵の独壇場だ

矢をつがえた騎兵同士がすれ違い様に射掛けあい、槍を手にした騎兵が矢を掻い潜って敵を突き刺す。
馬蹄の音に混じって怒号と悲鳴が響き渡り、血と雪と土埃が舞う中を戦士達は互いの名誉をかけて刃を振るう。
反乱軍の騎兵がアルングリムの騎兵に倒され、あるいは大盾と槍衾で身構えたハスカールの戦列の餌食となっていくと、戦いの趨勢は明らかになっていった。やがてアールパード軍の陣列は乱れ、ついには敗走を始めた。
生者は鬨の声を上げ、死者は野に伏して眠りについた。

戦場で冥府へ旅立った者達の中には、アールパードによって「正統な」王へと祭り上げられていたエレメールの姿もあった。
王位継承者のひとりであるエレメールへ王位の譲位を求めるという大義名分を失った反乱軍は散り散りになって遁走し、その後の追討によりアールパードとゲーザは捕らえられ、王のもとへに送られた。


捕らえられたトランシルヴァニア公アールパードとビハール公ゲーザ

アールパードは国外追放が宣告され、トランシルヴァニアは彼の子イシュトヴァーンに与えられることとなった。


威信が足りず王権が初期状態から上げられないので、領地を剥奪することができなかった

一方でビハール公ゲーザは反乱に加担したものの、首謀者ではなかったこと、アルングリムとの関係がもともと良好だったことなどから、罰金を課されるのみで許された。
こうしてハザール戦役後に勃発した王位をめぐる内乱は終結した。


イシュトヴァーンとゲーザも王の宴に招かれた

アルングリムはハザール戦役とアールパードの反乱で死んだ兵達の弔いと、彼らの働きに対する恩賞を与えるため、盛大な宴会を催した。
宴という場を利用して、トランシルヴァニア公を継いだイシュトヴァーンと、ビハール公ゲーザに公の場で改めて王への従属を表明する機会を与えたのである。
王としても彼らとの関係を修復し、その他のマジャル人首長達とも親睦を深めることは重要な課題であった。

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ハンガリー王アルングリム

「命を賭して共に戦った者達に、改めて礼を言いたい。諸君らの奮戦がなければ私は今ここにいなかったであろう」
「この場には先だって反旗を翻して我らと戦った者、そしてその子弟もいる。彼らを赦し、再び忠誠を示すことを認めてほしいのだ」
アルングリムがそう言って顔を向けると、イシュトヴァーン、ゲーザ、その一族達が頭を下げていく。
宴の場となっている広間からは彼らに対する悪態も聞こえてきたが、大多数は王に表立って逆らうことはしなかった。
アルングリムの合図で宴の参加者達は杯を掲げ、葡萄酒を飲み干した。この日のために屠られた豚や羊の肉が振る舞われ、人々は舌鼓を打った。

宴は金銭費用がかさむが諸侯の好感度を改善するのに有効だ

 

ひらめきの成果

ラグンヒルドがドナウ川を上ってハンガリーにたどり着いてから50年の時が経過していた。
ハンガリーの周辺国は統合が徐々に進み、この地域における役者が定まりつつあった。西はバイエルン、北はモラヴィアとヴォルヒニア、そして東のハザールの三者である。
一方で南はブルガリアを除きスラヴ人達の領域はまだ統合の最中であり、ビザンツが食指を伸ばしていた。
ハザールは先の戦役と内乱により弱体化しており、その支配領域とは裏腹にハンガリーの脅威とは見做されなくなりつつある。
他の隣接国についても近隣国との小競り合いや内乱を繰り返しており、この時期のハンガリーは外国の脅威に脅かされることなく国内の発展に注力することができた。

 

ハンガリーの宮廷では、この時期に様々な着想を持った職人達の手によって数多くの武具や美術品が宝物として手掛けられた。

鹿の角がつけられた盾、秦皮の無垢材から作られた玉座、楡の木から作られ猪の牙の装飾が施された飾り箪笥、碧玉の破片をあしらった銀製の笏杖、木糸で刺繍された羊毛の外套、磨き上げられた大きな碧玉の首飾り…
その全てが王の出資のもと、多大な労力と費用をかけて製作された。


また、材料を集めて工房で製造するのではなく、遠く外国に旅して宝物を王のために持ち帰ろうと冒険に出た者もいた。

ステップへの旅から帰還した探検家ドーケスから受け取った包みをアルングリムが手に取り、紐を緩めてから布を何枚も剥がすと、中に入っているのは見たこともないような美しい槍だった。

「この黒々とした古代の槍は、何世代にもわたって使われてきたものです。あまりに古いので、ジャンガルの物語で知られる伝説の槍アラムだと信じている人々が多くいました」


宮廷に置いているだけで弓騎兵の攻撃力と防御力が+20%も上昇するおまけ付きのアラム。強い

この名高い槍もまた宮廷の至宝の一列に加えられ、冒険の成果に王は大いに満足した。

 


壁にはアールパード王朝から引き継いだ毛皮や、狩猟の絵を描いたタペストリーなども飾られている

様々な宝物が並ぶハンガリーの宮廷

 

宮廷の人々

アルングリムの妃もまたアールパード家の出であり、名をヴィオラといった。ドナウ川沿いの大平原の一角を占めるバクス公の娘であり、アルングリムの母方の従姉妹にあたる。父フラニの生前に、王を守る味方を少しでも増やすために取り決められた婚姻であった。

アルングリムとヴィオラの間には多くの娘と息子が生まれたが、夫婦関係は全くの清廉なものというわけではなかった。ヴィオラとジェール公ポルステイン(アルングリムの父方の従兄弟)の密通が発覚した際、アルングリムは衛兵に命じて両者を捕縛している。

「姦婦ヴィオラ」は王と王宮の威信に関わる法的・倫理的な問題であったが、アルングリムはポルステインに罰金を課すだけでこれを赦している。

バクス公との盟約は代え難い…という程でもなかったが、傘下の首長との関係にことさら波を立てることを嫌った消極的な措置であった。
ただし、父親がアルングリムでないと噂されたハラルドは廃嫡され、継承権が認められることはなかった。

長男ハラルドが継承から外れたことで、王位の筆頭継承者はヴィオラの子ではなくカタリンという側室より生まれた次男ステインとなった。ハラルドの廃嫡から時を経たずして、スウェーデンで名高いムンソ家の娘セシリアをステインの将来の妻に迎える婚姻が取り決められている。

幸いにして、ステインは出色の子であった。母と同じく黒い髪をしたステインは、公正にして勤勉、野心家にして類まれな戦略家、そして屈強な戦士として育った。ステインは成人してすぐに父王の将軍に任じられ、万軍を率いることが期待された。


ステインが他の子弟と同じく宮廷教師の下で教育を受けたように、ハンガリーの宮廷では様々な役職の者が王の下に出仕していた。

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「陛下、この狼を贈り物として進呈します。王たるもの、宮廷を飾るために異国の動物を飼うこともその威厳を示す手段となりましょう」

密偵長と狩猟指南役を務めるニトラ公アスケールはラグンヒルドの三男ビョルゴルフの子であり、アルングリムの父方の従兄弟にあたる。
アスケールのある日の狩りの成果として、宮廷に持ち込まれた生きた狼はアルングリムに献上され王の愛玩用の動物となった。

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ポルステインとの密通が発覚した噂が市井で公然と流れるようになったヴィオラに対しては、貧者への慈恵を行う役割がアルングリムによって与えられ、贖罪の機会がもたらされた。
狭量な人々は「姦婦の施しを享受するなかれ」と口々に言ったが、彼女は貧しい人々に黒麦のパンを配り、また病める者たちに寄り添った。

従順な性格に育った娘のトゥーンダーを宮廷の酌取として遣いもした。特別なはたらきをした訳ではなかったが、宮廷の気品を保つ僕として忠実に尽くした。

 


性格「Ambitious(野心的)」「Diligent(勤勉)」によるストレス増加に加えて、難易度VeryHardによる補正でもストレスが上乗せされる。友人の死が重なった際にストレスを解消しきるのが難しい

アルングリムは狩りや宴会を通じて多くの友をつくり、彼らは王の治世に大いに貢献したが、その友人たちとの死別は大きな悲しみであった。


メンタルブレイクで悪癖特性を取得することでストレスの減少量にブーストがかかる。これと上手く付き合ってストレスを管理しなければならない

ヴィオラの兄であるバクス公アッティラが死んだ際は、その悲嘆ぶりは凄まじかったことが後の年代記に記されている。
アルングリムは悲しみを紛らわすため、元の宴会好きも相まってますます葡萄酒に溺れるようになった。

ワラキア征服

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アルングリムの治世の間、外征が行われることはあまりなかったが、ワラキアの征服はその数少ない事績であった。
952年12月、アルングリムはワラキアの平野部であるムンテニア公爵領の制圧を目的として、ブルガリア人のワラキア王リトミシュルに宣戦布告した。2年と少しの戦いを経て、955年2月にはこれに勝利している。

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それからさらに8年後の963年9月にはワラキア全体の征服に乗り出し、ワラキア王位を継いでいたリトミシュルの孫ブラディスラヴに対し戦いを仕掛けた。これも翌年7月にはブラディスラヴを降伏させ、その領土を併合している。

カルパチア帝国を創設 

カルパチアの大部分を支配するようになったアルングリムは、この地域における諸王を束ねる存在に上り詰めた。
アルングリムは己の権勢が及ぶ範囲がハンガリーの外にも及ぶことを示すため、儀式と布告に多額の費用をかけて、全土の首長や僧侶たちを集めた。
彼は「カルパチアの王」の称号を名乗り、新たに作り上げられた王冠を被った。

 

それから半年ほど経ったころ、アルングリムは57歳にして霊界への扉を越えた。
死ぬまで酒を手放さず、手の込んだ饗膳や盛大な宴で名を立てた彼は「饗宴王」として後の世に伝わっている。

 

次回 改革者ステイン

 

おまけ


せっかくなので紋章デザイナーを使ってカルパチア帝国の紋章を変更してみる。ゼロからフルスクラッチするのはなかなか手間がかかるが、領土称号の紋章についても既存のデザインをもとにした変更ができるので、これに頼れば少しの手間で違った印象のデザインにできそう。今回は基本レイアウトはそのままで、背景色を家の紋章と同じ緑に、紋章内の絵柄としての動物をウラル宗教のタールトシュに変えてみた