改革者ステイン

カルパチア上王ステイン


カルパチアの王として即位したステインが最初に取り組んだのは、傘下首長からの支持の確保であった。

ステインと五大公

アルングリムがその類稀な外交能力で束ねていた諸侯は、対価なしに新たな王に靡くことはなかった。特に大きな力を持つ5人の公―ラウマリキ家庶流のニトラ公アスケール、アールパード家のバクス公タクソニー、テメシュ公ガブリエル、トランシルヴァニア公ヴァズル、そしてバッチャーニ家のビハール公ゾルト―をどのように味方につけるのか、あるいは抑圧するのか、ステインは親政の始まりとともに頭を悩ませた。

最終的に、5人の公は王から与えられたもので3種類に分かれた。王の評議員の地位を与えられた者、贈り物を与えられた者、そして何も与えられなかった者である。

アールパード家のバクス公タクソニートランシルヴァニア公ヴァズルは王の評議員としての地位が与えられた。
宰相に任じられたバクス公タクソニーは祖ラグンヒルドのヴァルヨルフ系の曾孫であり、妻がステインの異母妹エオラのため、ステインの義理の兄弟にあたる。
財政管理に長けたトランシルヴァニア公ヴァズルは家令を任せられ、タクソニーと共に宴を通じて関係を深めていくなかで王への支持を明らかにした。

テメシュ公ガブリエルは彼の嫡男アッティラにステインの娘アスタが嫁ぐことが決まり、更にアスタの嫁入りに伴う持参金とは別に王から銀貨の詰まった櫃が贈られた。満足したガブリエルは王に対して反抗する派閥から離脱し、ステインを新たな王として認めた。

バッチャーニ家のビハール公ゾルトとラウマリキ家庶流のニトラ公アスケールは、何も得ることができなかった。先の3人の公を懐柔できたことで王に対する大規模な反乱が起こる可能性はほぼなくなり、彼らだけではもはや内なる脅威とは見做されなくなったのである。
ビハール公ゾルトは元から王へさほど強くは反発しておらず、ニトラ公アスケールは既に65歳に届こうかという高齢であった。ステインは2人がもはや王に反抗する旗印たりえないと分かると、彼らとの関係改善にことさら時間を割くことはなかった。

 

混合文化

カルパチア西部のノルド人やショモジ人の領域では、ノルド語やサーミ語ではなく、王の宮廷で話されるマジャル語の話者が次第に増えつつあった。
農耕と牧畜を生産手段の主としていたショモジの人々は、大平原に定住してなお遊牧生活を続ける一部のマジャル人達をしばしば至近で眺め、馬を自在に乗りこなすだけでなく、かけがえのない友とする術を彼らから教わるようになっていった。


ショモジ文化とマジャル文化の混合文化を創設。分化の枝分かれ後は50年間混合分化を創設できないことを知らなかったので、だいぶ時間がかかってしまった

ショモジ人とマジャル人との間での婚姻がありふれたものとなって久しく、両民族間で混血が進むようになった。彼らは共に狩りを嗜み、馬に乗って草原を駆け回り、羊の毛刈りをし、互いの特徴的な織物を教えあって暮らした。
スカンジナビアとウラルという二つの源流から発した異なる文化は今やカルパチアの中で溶け合い、その境界は曖昧になっていた。

ノルドの固有MaAを解禁するCoastal Warriorsと弓騎兵MaAを解禁するHorse Lordsを兼ね備える

ノルド人から枝分かれしたショモジ人がマジャル人の特性をこの地域に合わせて適応・統合させていった結果、彼らが住むバラトンからニトラにかけての地勢に因んで、いつしかフェルヴィデキ(高地の人々・フェルヴィデク人)と呼ばれるようになっていった。

 

聖地への帰還

ギリシアへの遠征や、スラヴ人の要請でハザールからキーウを防衛する戦いに参戦して名を上げたステインの下で、カルパチアに割拠する諸侯は次第に糾合されていった。
アルングリムの後を継いで玉座に座るようになってから6年が経過したころ、ステインは東に位置するマジャル人の故地を手中に収めんと動き始めた。

971年、傘下部族の内乱と戦っていたハザールの女帝イェルデムに対して、ステインはクリミアの征服のために軍を黒海に送り込んだ。


ワラキアに侵入して戦いを挑んできたイェルデムの軍をステインは粉砕し、捕虜となった女帝は自身の解放と引き換えにクリミアの割譲をステインに認めた。

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さらに973年4月、モルダヴィアとザポリーツィアを支配する氏族ヤブテルティムのハーン・タルカンがハザールから独立すると、ステインはこれを服属させ黒海北岸地域を一挙に支配せんと再び軍を動員した。

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部族制限定のSubjugateCBはこれができるので序盤の拡大が強い

スラヴ人の援軍も得たステインは2万を超える軍勢でステップにあるハーンの集落を相次いで襲い、翌年9月にはタルカンはステインに屈することとなった。

全ての聖地を確保しウラル宗教を改革

ドナウ川からヴォルガ川に至る広大な領域を支配するようになったステインを、タールトシュの長老たちはあまねく聖地の守護者としても認めるようになった。
彼らは一堂に会すると精神世界との対話の方法について議論した。犠牲や供物を捧げることと引き換えに現世での実利を期待したり、医療行為のためのまじないを追求する以外に、「何のために祈るのか」を討議して、彼らの「信仰」を未来に導くための統一した教義を確立することとなった。


君主が美徳を備えやすく、また継承候補者を整理しやすくするために、TenetsをEsotericism(秘教)、Pursuit of Power(力の追求)、Monasticism(修道生活)に変更。ウラル宗教固有のAuspicious Birthright(幸運の子)は低確率でしか美徳を獲得できず制御しづらいため入れ替えた。Doctrinesでは邪教扱いの傘下領主から領地を剥奪できるようになるRighteous(正統主義)、そして宗教指導者は改革者が世襲で務めるTemporal(世俗)に。宗教改革で大量に消費する信仰点を稼ぐために略奪や同盟による援軍参戦に勤しんだ

曰く、人間には主神イシュテンの意志を完全に理解することはできないが、祭司たるタールトシュは何が神聖であり何が不敬であるかについて公的に判断する力があるということ。
曰く、物質的欲求の追求は精神的な充足への道を阻むとして禁欲による神秘の理解が推進される一方で、タールトシュたる資格は生まれつきの身体の多肢、あるいは欠損などの徴(しるし)によるものではなく、後天的な修行によって獲得できるということ。
曰く、予言されたタールトシュの支配者―霊帝―が信仰の頂点に立ち、世俗世界と精神世界を合一して指導することが待ち望まれているということ。

世俗の宗教指導者となったため、主要称号がChief Táltosに変化

今やステインは全ての民を結集し、キリスト教徒やユダヤ教徒イスラム教徒に対抗して、新しい黄金時代を切り開く偉大な指導者であることが認められたのだった。


教義をRighteousにしたことで、ザポリーツィアをタルカンから合法的に剥奪し三男エイリーフに授与

信仰の組織化改革を足がかりとして、ステインはカルパチアが発展を続けていくために「君主が土地に根ざす封臣を保護し、封臣は代償として契約に従って君主に軍役あるいは税を提供する」統治制度への変革を決めた。これは周辺国のキリスト教徒達の事例を学んだ結果でもあった。


宗教改革を行ったことでウラル宗教を維持したまま封建化が可能となった

初歩的な段階ではあったが、戦士と農耕民の分業は既に始まっていった。
カルパチアへの移住後に遊牧生活を営んでいた少数のマジャル人も今や農村や都市へ合流し、大部分が農耕と牧畜を生活の糧とする定住民族へと変化していった。
定住は移動性を捨てることであったが、同時に拠点を築き外敵から身を守ることにもなった。


部族制下では2万5千を超えた動員兵力は封建化により半分以下に減少。常備軍の維持コスト・動員コストも威信ではなく金銭で支払われるようになったことで、規模を大きく縮小しなければ維持することすらおぼつかなくなってしまった

剣や槍、弓矢と乗馬の訓練に明け暮れる者達の姿は、彼らの代わりに耕す者がおり、君主が軍役に対し俸給を払うからこそ成立する光景であった。
こうしてカルパチアの戦士達の間で武芸の腕が磨かれていく一方で、以前のような交易、あるいは略奪のための遠征に赴くようなことはもはやできなくなっていった。

 

帝国の皇女

ステインがクリミアやザポリーツィアを攻め取るより前の968年10月、ミクラガルドへ略奪に赴いたステインは、城壁内に侵入した際に偶然居合わせた2人の皇女、ディオニュシアとテオファノを捕らえていた。

この姉妹のことをステインは気に入り、カルパチアの帝都まで連れ去ってから皇宮に住まわせ、手ずから教育を施した。そして2人にタールトシュの「洗礼」を受けさせた上で、姉ディオニュシアを長男ヨートルに、妹テオファノを三男エイリーフに、それぞれ婚約させている。


ゲームの仕様として、牢から出して宮廷に置いた人物は評議員であることなどの理由がないと「正当」な場所にそのうち移動してしまう

奇妙なのは、ディオニュシアとテオファノはステインに連れ去られた後、成人するまでの間にミクラガルドの父帝レオン7世のもとへ帰還しているという記録がみられることである。

そしてこの後姉妹は改めてカルパチアへ入り、ステインの決めた婚約の通りにヨートルおよびエイリーフと正式に結婚、カルパチア皇子の妃となっている。
このカルパチア・ビザンツの不思議な婚姻関係については様々な憶測が飛び交った。

「ステインが度々ミクラガルドを訪れ、ギリシア語の教師となったディオニュシアを通じてレオンと交渉していた」
「ステインとレオンが密かに手紙で交流し、詞を送り合うなど仲を深めていた」
「ステインがレオンに対して金銀や宝物を届けて略奪の被害を賠償していた」

などの噂は立ったが、決定的な証拠はなく真相は不明である。


通常であれば邪教扱いの正教徒のAIとは結婚が受諾されることはないが、(誘拐した娘をこちらが手元に置いている時に勝手に結んだ)婚約を成人時に追認する判定は親の好感度さえ高ければ受諾されるのでは…?と推測。様々な手段を講じてビザンツ皇帝の好感度を上げたら結婚を認めてくれた

いずれにせよこれらの正式な婚姻は2人の皇帝の個人的な友情の証であり、両国間の同盟関係を象徴していた。

カルパチア皇室へ嫁入りしたディオニュシアは勇敢にして公正に育っており、幼少期に子供同士の諍いでついた傷は美徳の模範たらんとする彼女の生き様を表しているようであった。

「陛下!これはイシュテンへの冒涜です!」

男色を好むジェール公、アスビョルンの子コールが夫ヨートルを誘惑せんと迫ってきた時は、自ら夫を引き連れて宮廷でこれを告発し、神の名においてコールを裁くようステインに迫ったこともあった。


何をやっているのか…

またヨートルが父より任せられたショモジの領地でシラという女と密通していたことが発覚した際は、ディオニュシアはこの罪もまた同様に告発し、己の名誉にかけて夫の不義を断罪するよう訴えた。

こうした高潔さこそ故にステインとレオンの友誼の象徴に危うさが見られることもあったが、ヨートルとディオニュシアの間には多くの子が生まれ、その1人は後の霊帝ステイン2世となって後のカルパチアを統治することとなる。

 

北方進出

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989年10月、霊帝ステインは神の名の下にヴォルヒニアへの聖戦を開始した。
カルパチア軍は封建改革により規模が大幅に縮小しながらも1万に達し、更に王の軍隊とは別に戦神ハドゥールを讃えて設立された「生命の樹の戦士団」もこの戦いに招集された。


後援者は宗教騎士団をコストなしで使い回せる。弓騎兵が主力となるため非常に強力

戦いはカルパチアの北麓で始まり、ステインの率いるカルパチア軍とヴォルヒニア軍の戦いは1年半に及んだ。
カルパチア軍の半数以下のヴォルヒニア軍は大規模に抗戦することはできず、991年5月にヴォルヒニア王ガブリエル2世はステインに屈し、ヴォルヒニアの広大な領域が全てステインに明け渡された。

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征服したヴォルヒニアの土地は四男ヴィルモスにすべて授与された

この戦いを含めて霊帝が統べる信仰の存在はヨーロッパに全土に知れ渡り、特に隣接するキリスト教国ではその影響力が無視できないほどに増大した。
それはヨーロッパにおける宗教戦争が、イスラム教とキリスト教の衝突という二極化された構図ではなく、双方から「異教」と見られていたシャーマニズムの1つが第三極として関わるようになったことを意味していた。


ホルグスホール(ヴィシェグラード)は公爵領の首都建造物スロットとウラル宗教の聖地建造物スロットの両方を備えるポテンシャルの大きい土地だ

皇都ヴィシェグラードはホルグスホール(祭壇の丘)と名を変えられ、ステインは聖地としての意味を持つこの地に大神殿の建造を命じた。


神々や半神の英雄的な行為を描いた華麗な彫刻で覆われた壮大な神殿では、巨大な焚き火が神々へと煙を上げ、神々を崇めるすべての人々に対してタールトシュ達が祝福を与えるための場所となることが計画された。

ステインは深酒がたたって1005年5月に亡くなり、この神殿の完成を見ることは叶わなかった。
しかし彼は生涯にわたってカルパチアの軍事と政治と宗教に絶大な影響力を持ち、その改革の功績は計り知れないものであった。
ステインの死後、カルパチア皇帝とタールトシュの長の地位は嫡男ヨートルが継ぎ、「霊帝」が世襲で継承され統治する体制が生まれることとなった。
こうしてカルパチアは世俗世界と宗教世界の統治者を兼ねる霊帝の支配のもと、東欧の大国として確固たる地位を築きはじめた。

 

次回 建築者ヨートル