法学者ルステム(前編)

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1239年、バヤズィトの子ルステムは父からディヒスタンとタブリスタンの軍政官位を継承した。

バヤズィトから北部の領地を与えられ統治していた頃から、ルステムは自分達がモンゴルの一傘下領主に甘んじていることに嫌気がさしていた。

東の果てに都を構える異教の皇帝のために税を納め、軍役を負担し、イスラム世界の大部分を敵に回して領地を防衛しなければならない。こんなことを続けて果たして未来があるのだろうか?

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自領に侵入してくる対モンゴル同盟諸侯との戦いはまだ終わらない 

 

時たま怒りが抑えられなくなるルステムを宰相メングチェクは諌めつつ、しかしながらモンゴルから離反することについては同調した。

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ルステムの宰相、やせっぽちのメングチェク

向かう所敵なしだった頃のモンゴルを前にしては、服従か死かしかなかったかもしれない。だが近頃はモンゴルの西進は失敗し続け、兵力の供給も封臣から供出されるそれに頼っている。

「事実として、モンゴルから離反しようとする諸侯の兵を合わせた数は、皇帝が動かせる数よりも上回っております。父君が遺した指針に従い、同じように帝国に不満を持った者達と独立を勝ち取る時が来ているのではないでしょうか」

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モンゴル帝国内の独立派閥に加入する。ルステムの加入により派閥の動員兵力が一気に増えた。


 

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父バヤズィトと同様にルステムも顧問として評議会に招かれるだけでなく、摂政にまで指名される

 

 「…では、この任官も皇帝の色目仕掛けという訳だ」

ルステムはモンゴルの使者から届いた封書を置き、背を居室の椅子に預けて宰相の応えを待った。

「我らを帝国内に引き留めようと苦心しているのでしょう。それだけあなたとあなたの兵がどちらに転ぶかが重要なのです」

「皇帝がそこまで気を揉むとはな…父の遺した領地と兵がよほど警戒されているらしい」

 

独立に傾いたルステムの心はそこから動くことはなかった。

1240年1月、ルステムは独立派の諸侯をまとめ上げるクルディスタン大首長のジャヴィードと子同士の婚姻を結び、同盟を締結する。

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独立派閥の盟主、クルディスタンのジャヴィード

花嫁の見送り式の後の宴の中、ルステムはジャヴィードを永く助けることを強く誓った。独立を目指す諸侯の一員としてだけではなく、一朝有事の際にはジャヴィード個人の難事にも兵を引き連れ駆けつけよう、と。

 

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モンゴルを締め付ける網はいまだ緩む気配なく、ルームに勢力を広げるセルジューク朝もモンゴルに対抗する同盟の下で参戦している。

ムスリムとテングリ信仰の領主が入り混じった寄り合い所帯ではあったが、これ以上の兵力の消耗は独立派の諸侯の誰も望んでいなかった。
彼らは力を蓄えつつ、ジャヴィードによる決起の時を待ち望んでいた。

 

東方から

シルクロードを通じて流入するのは異国の宝飾品だけではない。文化や情報も貴重な価値あるものだし、人もまた売られたり流れ着いたりもするものだ。

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ある夜、ゴルガーンの宮廷にヤンファンと名乗る漢族の密偵と思しき男が押しかける事件があった。彼が言うことを信じるには、元から逃れている自分を匿って欲しい、助けて貰えれば武官として忠節を尽くす、という。

出自も定かでなく、いかにも曰く付きの事情のようだが、ルステムは外套の下に鎧を着込んだこの男を受け入れ、軍の指揮官に任じ様子を見ることにした。

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出自不明の中華の軍人ヤンファン

ヤンファンに備わった東国の軍学は確かなもので、その知識は家中の他の者にとっても学ぶべきものが多かった。ヤンファンを顧問役として戦闘教義の大規模な改良が行われ、これが後の戦役で大きく活躍することになる。

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行軍速度強化に加え両翼編成時強化がついてくる「虎の行」はどんな時でも活用できる

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包囲速度が大幅に強化される「豹の行」も非常に強力

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これらの中華の軍学も指揮能力扱いなので、人物の軍事値によってさらにブーストがかかる

 

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しばらくして、「中華帝国の内乱で敗れた反乱軍の将軍が新たな勢力を築こうとインドに逃れてきている」という噂がもたらされた。火種を抱えた王朝すら、彼らの輸出品の一部であるらしい。

「あるいは、ヤンファンの出自もこれに絡んでいるのではないか?」という疑念もあったが、ルステムは彼を慮り、心に留めただけで問う事はなかった。それだけ彼がもたらす軍事改革は貴重なものだった。

  

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将来の禍根となりかねない弟カシムを宦官として中華帝国に送り出しもした。若くして非凡の才が垣間見えていた人物に領地を与えて下手に力をつけさせるより、よほど平和的な解決策だと信じていた。亡き父は悲嘆に暮れるかもしれないが…。

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ムスリムは兄弟間で非常に大きなopinionペナルティがつく上に、兄弟の殺人(暗殺含む)を犯しても悪性traitであるKinslayer(同族殺し)が発生しない。子が量産される複婚と合わさり、親族間での殺し合いを加速させる仕組みになっている。

 

 

解放戦争

1236年から続いていたモンゴルのエスファハーン総督への征服は1244年4月にモンゴル側の敗北に終わり、和議が結ばれる。8年に渡る戦役はこれでようやく終結したのだった。

 

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ルステムは来るべき蜂起の時に備え、周辺領の併合と不可侵条約の締結を進めた。
まずはタバリスタン最後の1州であるクワイバルを支配すべく征服を開始し、1245年12月にはこれを完了させた。

 

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南のホラーサーンの軍政官サハインサ2世とは彼の娘とルステムの長子バヤズィドとの間での婚約を成立させ、北で接するジャラールッディーンとの間にも彼の長子とルステムの姉との婚姻を成立させた。中央アジアに割拠する軍政官達との小競り合いを防ぐべく手を打ち続けたのである。

 

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モンゴル帝国の西端では国境を接するアイユーブ朝がモンゴルとシリアの領地を巡って侵攻してきており、帝国の兵力は未だしばらく疲弊するであろうことが予想された。

 

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アイユーブ朝のスルタン、アル=カーミル。アイユーブ朝はアラブで4王位を束ねる極めて強大な王朝だ。

 

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1246年12月、ついに機は達したと判断したクルディスタン軍政官ジャヴィードは、自らを含めた諸侯の解放を要求する最後通牒を皇帝フレグに突きつけた。フレグはこれを拒絶し、モンゴルにおける2度目の大規模な内乱が開始されることとなった。

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白線が独立派諸侯、赤線がモンゴル皇帝直轄領および皇帝に従う諸侯。旧ホラズム傘下だった地域だけでなく、タリム盆地のモンゴル人やウイグル人などの領主も反乱に参加している。

 

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1249年2月、開戦から2年以上が経過し、反乱軍は小規模な軍のみを送ってくるモンゴル相手に負けを知らず、野戦での勝利と領地の制圧を続け皇帝を追い詰めつつあった。

  

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時間経過による戦勝点はキャップされるものの、戦勝点99%で勝利寸前。あとは一度大きな戦闘で勝利するか、このまま開戦から3年経過するまで待てば独立に成功する…


だが、勝利を目前にした戦いは思いがけない形で幕を閉じる。反乱軍の盟主ジャヴィードが病死してしまったのだ。

 

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リーダーが死亡したことによる反乱の強制終了。思考が停止した。

ルステムやジャヴィードの子のジャヴィード2世は諸侯を必死に引き止めようとしたが、あくまでジャヴィードという一個人のもとに結束していた諸侯に対してはそれも詮無いことであった。
陣中から各々の領地へ帰っていく旧反乱軍を為すすべなく眺めながら、ルステムは悔しさで歯を軋ませることしかできなかった。

  

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©rusticus80,2013,Sunset in the Jaiselmer desert,CC BY-SA 2.0

 

雌伏の時

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フレグの兄ホトグト。内乱中フレグの死去により皇帝に即位した。
反乱が強制終了したためか、反乱参加者は罪人扱いにはならなかった様子。


反乱諸侯は帝国への帰参を命じられ、あくまでジャヴィード個人の責による乱として処理された。主に反旗を翻しながら、処断される者がいなかったのはルステム達にとって幸運だったといえる。

反乱の目的は達成できなかったが、ルステムに落胆している暇はなかった。今度は自らが諸侯を束ねる盟主となり、改めて独立を目指すことを決意したからだ。

そのためにも今は更に勢力を拡大しなければならない。いざとなれば単独でも再び蜂起し、同盟で外部勢力の兵を呼び込んででも…。

 

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カスピ海南西岸を支配しルステムと睨み合う「博識公」ナウィード

1249年8月、西で接するガズヴィーンの征服のため、ルステムはタブリーズおよびギーラーンの軍政官のナウィードに襲いかかった。

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占拠中のガズヴィーンでの防衛戦。数の上では不利であったが、川を挟んで守勢に回ったことと、ヤンファンを含む諸将の指揮能力の優位により完勝する。

翌1250年7月にはこれに勝利し、ガズヴィーンを奪取する。
以降、カスピ海南西岸一帯を支配するナウィードは、東側からダイラムの統一を目指すルステムと度々争うようになる。

 

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さらに翌1251年1月、今度はゾロアスター教徒の民衆反乱で独立していたホラーサーンにおいて、ゴルガーンの東に接するトゥースの征服を敢行する。
これにも同年9月までに勝利を収めることとなり、モンゴルでの反乱終結後から早々に2州を獲得することとなった。

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旧ホラズム朝傘下から分離した勢力の中では今や最も拡大した勢力となった 

 

僥倖

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トゥースでの戦役が終わった頃、ホトクトが病死し、7代皇帝としてクビライが即位したという報せが各地に届いた。

ルステム個人にとっては遥か彼方のカガンの首が挿げ替えられただけに過ぎなかったが、不可解なことが後に続いた。徴税を司る帝国の役人の来訪がばったり途絶えたのだ。

密偵長に情勢を探らせたところ、どうやら皇帝の崩御に伴って各地のモンゴル軍がカラコルムまで引き上げていだらしい。それ自体はモンゴルの慣習的な光景であったが、特にこのダイラム近辺で統制が乱れているようだった。

「あるいは、この機に乗じてモンゴルの支配から脱してしまえるのではないか?」

叛逆者として覚悟を決めながら不本意な形で機会を逃していたルステムにとって、これは千載一遇の好機でもあった。

 

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遊牧政権の君主が死亡した時のランダムイベントが発生

ルステムはすぐさま早馬を走らせ、自分達がモンゴルの支配から脱したこと、及びモンゴルの侵略があればこれから防衛するために共同で挙兵する意志があることを諸侯に通知した。

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モンゴルを標的にした防衛協定に参加する

もはやモンゴルをペルシャより西へは進ませない、攻めて来ようともこの包囲網を突き破るほどの力はないはずだ、という賭けでもあったが、ともかくルステムはこれによって最も求めていたものを成し遂げることとなった。 

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1251年9月、モンゴル帝国から独立
 

なんとも可笑しな話ではあった。戦を起こしてまで実現できなかった独立を、まるで道端に転がっていた石を拾うように容易く手に入れることになってしまったからだ。

周辺諸侯と外交的な調整をし、傭兵を長期間雇うだけの財を蓄え、ペルシャの大地を駆け回って皇帝相手に戦いを挑んだあの年月はなんだったのだろう。ルステムは一人苦笑するしかなかった。

  

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モンゴルからの独立を果たしたことにより、ルステムの外征はますます活発化することとなる。まずはアラル海南岸にわずか1州で独立していたウルゲンチを征服すべく軍を差し向けた。

その戦いの最中、今度は西のナウィードが越境し兵を送り込んできた。先にルステムが奪ったガズヴィーンを奪還すべく動いたのだ。

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「お前を生きたまま死んだラクダの腹の中に縫い合わせてやろう」

ルステムは1252年8月にウルゲンチを陥落させルステムに服属させると、西へ反転しナウィードの軍を撃退した。次いでダイラム西部のナウィードの支配地域を制圧し、多額の賠償金の支払いを強いる形で和睦を結ばせることに成功した。

 

父の代での苦渋の決断の結果に生じたモンゴルへの服属。その鎖は解き放たれ、カスピ海南岸から東岸にかけて有力な独立勢力が出現することとなった。ルステムは虎視眈々と周辺国家を伺い、その後の歩みをどう進めるか楽しげに考えている。

 

法学者ルステム(後編)へ続く